大正・昭和前期
問い合わせ番号:10010-0000-2277 登録日:2014年4月16日
軽便鉄道
大正2年(1913年)に開通した軽便鉄道は秦野~二宮間を時速約10キロで走りました。
ところが、大正10年(1921年)に秦野自動車株式会社が設立され、乗合自動車が秦野~二宮間を25分ほどで運行したため、1時間もかかる軽便鉄道は利用客が減少しました。そのうえ、関東大震災によって損害をうけ、昭和2年(1927年)の小田急の開通の影響などから、ついに昭和12年(1937年)に軽便鉄道はその姿を消しました。
小田急の開通
軽便鉄道が通っていた頃の秦野駅は、最初は本町地区の台町にありましたが、たばこ輸送の都合から専売公社のそばにつくられました。そこで、小田急の開通にともなってできた駅は、この「秦野駅」と区別するために「大秦野駅」と名づけられました。
小田急の開通は沿線の町村の経済発展をもたらすと考えられ、各町村では駅の誘致を活発に行いました。
当時、新宿~小田原間は45分間隔で2時間23分で運行され、丹沢の山々を観光地化するとともに、鶴巻温泉を都会に近い温泉場として有名にし、利用客も増加しました。
電力の供給
水道とともに、全国でも早くから供給されたのが電力でした。
明治43年(1910年)に秦野電気合資会社ができ、秦野町と南秦野村へ電力をおくり、大正5年(1916年)には、町営電気となりました。
また、大正7年(1918年)には相武電力株式会社が、大根村、東秦野村、北秦野村、西秦野村の大部分に供給をはじめました。
関東大震災
大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分、関東地方でマグニチュード7.9という大地震がおこりました。
震源地は相模湾の北西部と推定され、秦野は震源地にも近く、大被害をこうむりました。
この時、今泉の字上市木から後久保にかけて、深さ約12m、約55m四方にわたり、大崩壊があり、ここに流れていた川がせきとめられ、現在の震生湖ができあがりました。
この地震の際、学校帰りの2人の児童が犠牲となりました。その供養塔は今も秦野盆地を背に丘の上にたっています。
また、秦野町では乳牛地区から出火し、秦野町の中心部であった四ツ角周辺は焼きつくされました。
不況と戦争
第1次世界大戦後の慢性的不況は、震災後さらに経済恐慌にまで発展し、中小の銀行は倒産し、地方産業に大打撃を与えました。このような時、農村では勤倹貯蓄の運動が高まり、次第に国民精神総動員運動とも結びついてきました。
日本はこの時期、中国への進出を図り、昭和6年(1931年)には満州事変を、昭和12年(1937年)には日華事変をおこし、日中全面戦争への道を歩んでいきました。
国民は国家総動員体制のもとで生活への統制が加えられていきました。昭和12年に国民精神総動員の徹底を図るため強調週間が設けられ、秦野においても各村や町ごとに実施事項が決められました。
北秦野村では次のような実施事項が村長から青年団や国防婦人会、青年学校などに対して出されました。
月日 |
実施要目 |
実行事項 |
---|---|---|
10月13日 |
時局生活ノ日 |
詔書捧読 訓話 早起 |
10月14日 |
出征将兵へノ感謝 |
慰問袋並慰問文ノ発送ノ日 |
10月15日 |
非常時経済ノ日 |
国産品使用、愛国貯蓄 |
10月16日 |
銃後ノ護ノ日 |
出征家族ノ家庭訪問並労力援助 |
10月17日 |
神社参拝殉国勇士 |
神社参拝 忠魂碑参拝 墓参ヲ讃ヘルノ日 |
10月18日 |
勤労報国ノ日 |
公共施設労力奉仕能率増進 |
10月19日 |
非常時心身訓練ノ |
武道会其ノ他運動競技会 冷水摩擦日 |
生活の統制はさらに強まり、軍需物資や輸入品の統制から、日用品へと広がり、昭和15年(1940年)にはマッチ、砂糖、清酒、木炭などが配給になり、切符制が実施されました。
また、秦野の伝統産業であった秦野木綿も原糸統制の余波をうけて、昭和14年(1939年)に焼杉下駄の製造へと切りかえられていきました。こうした中で昭和16年(1941年)日本は太平洋戦争へと突入していったのでした。
秦野は大規模な空襲こそ受けなかったものの多くの戦死者を出しました。また、戦争が激しくなるにつれ、横浜などに住む数校の子どもたちが秦野の寺々に学童疎開をしてきました。
疎開児童感想文集「梅花」より
龍法寺(南矢名)
初6 轟木 稔
私は去年の8月19日この大根村へ疎開してまゐりました。そして今日迄無事に過ごして来ましたがいよいよこのなれた土地を離れて横浜へ帰る事になりました。
今は体も心も立派になれたことは、みな先生を始め、寮母さん、作業員、村の人、方丈さんのおかげでこんな立派になれたのです。
これまで愉快であった事はうんとありましたが、その中でも村の子ども達と一緒に演芸会をした時が一番嬉しく思ひます。…(中略)…また村の人々にも寒い日も暑い日も僕達のことを思って、野菜をもって来てくれたり、もしきがなくなると、自分の家の山にある木まで切ってもって来てくれます。…(中略)…僕は横浜へ帰ったら大根村で鍛へたこの心体を以て、一生懸命勉強し、必づ、立派な少年飛行兵に入隊して、お国に役立つ立派な軍人となって、この大根村の上空をきっと飛びます。
それまで先生方、寮母さん、作業員の人、方丈さん、村の人々もみな元気でお待ちしてゐて下さい。けっして御恩は忘れません。
(原文のまま)(昭和20年3月10日)
このページに関する問い合わせ先
所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581