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戦後の秦野

問い合わせ番号:10010-0000-2276 登録日:2014年4月16日

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 市制施行

昭和28年(1953年)10月1日「町村合併促進法」が施行され、神奈川県でも「県町村合併促進審議会」が設置されました。昭和30年(1955年)1月1日、秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村の4か町村で協議がまとまり、秦野市が新設されました。その後、大根村の落藩、北矢名、南矢名、下大槻が編入合併し、西秦野村は上秦野村と合併して、西秦野町となりました。秦野市と西秦野町の合併は、話し合いの末昭和38年(1963年)1月1日をもって実現することになり、現在の秦野市ができあがりました。

 新教育制度

昭和22年(1947年)3月公布の「学校教育法」により、国民学校は再び小学校となり、新たに中学校、高等学校、大学の6・3・3・4制が発足しました。

 秦野では、東、西、南、北、大根、本町、上の7中学校が開校しましたが、各中学校はほとんど小学校の教室を借りての発足で、教育施設は戦後の経済復興とともに整えられました。現在、秦野市内には9つの中学校があり、新校舎の建設や体育館の整備等も行われています。

高等学校では、昭和23年(1948年)4月に、県立秦野中学校が県立秦野高等学校に、県立秦野高等女学校が県立秦野女子高等学校とそれぞれ改称されました。さらに、秦野女子高等学校は昭和25年4月に県立大秦野高等学校と改称されました。

秦野市内にはその後、県立秦野南が丘高等学校、県立秦野曽屋高等学校が新設されました。

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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