一般的な農家の間取り

一般的な農家の間取り図の画像

市内の住生活に影響を与えたのは、大正12年(1923)の関東大震災といわれていますが、つい最近までの大部分の農家では田の字型の間取りで、カヤや麦わらの屋根がほとんどでした。

図は、江戸時代末期の一般農家の代表的な間取りの一例です。平家づくりで、広さは座敷17畳半、奥8畳、部屋10畳、納戸6畳、お勝手6畳、土間5坪です。

それぞれの部屋は次のように使っていました。

座敷には囲炉裏があり、横座という所に主人、かか座には主婦がすわり針仕事などもここでし、客座もありました。奥は、祖父母が寝起きをして、お客が来たらここに泊めるようにしていました。納戸は、若夫婦が寝起きをして、お産もここでしました。お勝手は、半分ほどござがしいてあり、ご飯を食べました。土間では、わら仕事などをしました。天井がなく、はりが見えたものです。部屋でも天井がなかった家も少なくありませんでした。

重要文化財旧北村家住宅

林を背後に建つ、木造藁ぶき屋根の平屋の旧北村一平家の外観写真

この農家は丹沢山地の麓の堀山下にあったもので、北村一平さんの住宅でした。(今は川崎市の日本民家園にあります。)

東日本では、建築技法などからみて、この北村家より古いと考えられる家も何棟かありますが、墨書や棟札で建てた年代のわかる民家としては、今のところこの建物が最も古いとされています。その点で、今から約300年前の貞享4年(1687)に建てられたこの民家は、大変貴重なものといえましょう。

五衛門風呂

この頃の風呂に五衛門風呂がありました。釜ゆでの刑にされたといわれる、石川五衛門の名からとられたといわれています。桶の水面に平板を浮かせて、薪をたいて沸かすものでした。平板は浮き蓋とし、風呂に入る時は、これを踏み沈めて入りました。

弘法山の時の鐘

石垣の上に建てられた切妻屋根の鐘楼の中に、古い鐘が吊るされている弘法山の鐘の写真

弘法山には「時の鐘」と呼ばれる大鐘があります。この鐘は宝暦7年(1757)から昭和31年(1956)まで、時には中断もあったようですが、約200年にわたって、相当広い範囲の村々に時刻や火事などの災害の発生・気象情報を知らせる役割を果たしていました。今あるものは享和元年(1802)に作られたものです。

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文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
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