桜土手古墳公園

秦野地方の古代人の生活を知ることができる公園

石を積み上げて造られた丸い古墳に、曲線状の石畳の道が入口へと続いている様子を写した復原古墳の写真に「1」と書かれた画像
大小2つの緑がかった古代の壺が展示台の上に置かれている古墳展示館内部の写真に「2」と書かれた画像

桜土手古墳群は、秦野市の中央部を流れる水無川の中流域に位置し、35基の古墳が確認されています。この古墳群は、7世紀後半に造られたもので、すべてが円墳で構成され、古墳群としては県内でも最大規模と言われています。桜土手古墳公園には、保存古墳6基と復原古墳1基があり、また、多くの出土品や模型、写真などが見学できる展示館もあります。

  1. 復原古墳
  2. 古墳展示館

源実朝公御首塚

鎌倉幕府第三代征夷大将軍源実朝の首塚

林の中にたたずむ、石灯籠や五輪塔の周りに花が供えられた源実朝公御首塚を写した写真

源実朝の御首は公暁を討ちとった三浦氏の家来、武常晴らによって持ちこまれ、当時この地を政めていた波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられています。

大日堂

市内でも由緒ある文化財

前庭には枝垂れ桜の木と案内板が立ち、木々に囲まれた静かな森の中に建つ大日堂の写真

本堂には、県の重要文化財に指定され、全長3メートルに及ぶ「大日如来」があり、この像の両脇には、四体の如来像もあるため、併せて「五智如来」という別称でも呼ばれています。

延命地蔵

全長が約3.7メートルの石仏

木造の建物内部に安置された赤い頭巾とよだれかけを身につけ、片手に杖を持って穏やかな表情で座っている大きな延命地蔵を下から見上げた写真

江戸のある商人が米寿の記念に、先祖供養のために建てたと伝えられえています。石仏はとても穏やかな表情で、長寿祈願や安産祈願として信仰されています。

白笹稲荷

関東三大稲荷のひとつ

伝統的な日本の神社建築の前に多くの参拝客が集まり、境内には「白笹稲荷神社」と書かれた大きなのぼりが立っている白笹稲荷の写真

きつねは昔、春の耕作のはじめに、山を下って「田神」として迎えられる食物神の神使と言われたため、毎年2月の初午には、五穀豊穣を祈ってのお祭りが、盛大に行われます。

上宿観音

相模新四国三十一番目の霊場

木々に囲まれた赤い屋根の社殿が石段の上に建ち、その手前には石灯籠や白い鳥居の一部が見える写真

本堂には千手観音像が安置されています。8月9日の縁日は「四万八千日」と呼ばれ、この日に参拝すると四万八千日分の御利益があるといわれ多くの人が訪れます。

秦野とたばこ

収穫期を迎えたたばこ畑で麦わら帽子を被った人々が作物の手入れや収穫作業に勤しんでいる様子のモノクロ写真

 秦野は古くから煙草の名産地であり、煙草耕作で栄え、発展してきた歴史があります。秦野における煙草耕作の起源には諸説ありますが、江戸時代初期にまでさかのぼることができる言われています。宝永4年(1707年)の富士山噴火により、秦野の耕地に火山灰が降り積もり、やせ細った土地に一変してしまいました。こういった土地でも、葉たばこの栽培は可能であったことから、盛んに煙草耕作が行われるようになったとされています。
 江戸時代後期には、秦野葉の名で広く知られるようになり、後に薩摩(鹿児島県)、水府(茨城県)とともに「三大銘葉」の一つに挙げられるようになりました。幕末から明治にかけて民間喫煙習慣の拡大や技術改良により、秦野の煙草耕作は大きく発展し、大正から昭和にかけて全盛期を迎えました。
 しかし、煙草耕作は大変な労力がかかり、高度経済成長以降、第一次産業に従事する人口が減少してくると生産が低調になっていきました。秦野葉は、刻み葉(キセル用)であったため、嗜好品の変化から消費量も減少し、昭和49年を最後に秦野から姿を消しました。その後は、紙巻き煙草用の米葉と呼ばれる黄色種が生産されたものの、かつてのような隆盛はなく、昭和59年に黄色種の生産も廃止され、秦野の煙草耕作は終焉を迎えました。

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環境産業部 観光振興課 観光振興担当
電話番号:0463-82-9648
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