弘法山
鐘楼(しょうろう)   
 時刻を知らせる「時の鐘」として、江戸時代から1956年<昭和31>まで秦野周辺地域の人々に親しまれてきた。現在の鐘は1801年<享和元>に再鋳されたものである。1757年<宝暦7>に龍法寺6世が最初に鋳造し、その後、火災に遭ったため、9世住職が再鋳した。戦時中、供出されそうになったが、地元の人々の強い反対で残されたという。
弘法山周辺
大根地区
 この供養(くよう)塔は鐘楼を造るために多くの人々の寄付があったことを記念して、1806年<文化3>に建立(こんりゅう)された。これを見ると秦野市、伊勢原市、平塚市、大磯町のほぼ全域、厚木市、二宮町の一部など、計100カ村以上もの人々から援助を受けたことがわかる。
 弘法山山頂には井戸があり、これは弘法の乳の水と呼ばれている。言い伝えによると、この井戸から湧き出た水は白く濁り、乳の香りがしていたという。夜中、人知れず山に登り、乳の水を飲むと乳がよく出るようになると言われ、山に登る人が多かったという。
筑波園杉人  句碑
    (さんじん)
 江戸時代末の人で、江戸の筑波園山雨(さんう)の門下であった。妻の実家近く南矢名の平内久保に住み、俳諧(はいかい)にも見識を持ち、寺子屋の師匠もしていた。1860年<安政7>建立の句碑は善波峠にあったが、関東大震災で埋もれてしまったため、龍法寺の住職が現在の場所に移した。「世を旅にまかせて 華(はな)のやどり哉(かな)」と刻まれている。杉人の辞世の句ともいうべきものである。1869年<明治2>に南矢名で他界した。
 原久胤は下大槻村に生まれ、江戸に出て小川伴鹿、本居春庭(しゅんてい)に学んだ。当時の国学者たちと深く交流し、万葉集の研究者でもあった。墓は下大槻団地の下に残されている。この歌碑は東京都品川区の長応寺にあったものを子孫が発見し、没後150年にして、故郷を望むこの地に平成8年に移設した。碑には「我(いお)は盛も人のとはぬかな をしまれてちる花もあるよに」と刻まれている。1844年<天保15>9月に52歳で没した。
植木俊助
頌徳(しょうとく)碑
 植木俊助は、1892年<明治25>足柄上郡中井村に生まれた。県下の小学校で教職についた後、1922年<大正11>秦野町立尋常高等曽屋小学校の訓導(くんどう)となり、融和(ゆうわ)教育に取り組んだ。1927年<昭和2>に教職を辞した後、県下の融和教育運動と被差別部落の経済厚生運動を指導し、その運動論と実績は全国的にも評価された。1942年<昭和17>に50歳で永眠した。碑は1952年<昭和27>地元や県下の有志によって建立された。
拾万人講供養塔
(じゅうまんにんこうくようとう)
弘法の乳(ちち)の水
原久胤(はらひさたね)
歌碑
大根地区「原久胤の墓」 参照