はだの浮世絵コレクション【2025年1月~】
問い合わせ番号:17350-1498-0542 更新日:2025年4月1日
「はだの浮世絵ギャラリー」では、秦野市が寄贈を受けた浮世絵1,904点を順次、展示しています。
より多くの皆様に、この浮世絵という貴重な文化芸術資源を知っていただくため、「はだの浮世絵コレクション」と題して、浮世絵作品紹介をしています。
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現在開催中の展示企画は、「百花繚乱ー花の浮世絵展ー」ページへ
「名所江戸百景 亀戸天神境内(めいしょ・えど・ひゃっけい かめいど・てんじん・けいだい)」歌川広重(うたがわ ひろしげ)
解説
「名所江戸百景」は、歌川広重が亡くなるまでの3年を費やし制作した晩年の代表作です。亀戸天神社には、菅原道真公を祀(まつ)った太宰府天満宮に倣(なら)って造られた社殿や太鼓橋、心字池があり、その周りには藤棚が設置されていました。藤の花の咲き誇る季節には、花見客で大賑わいでした。青い空と池の間の白い空間には、藤棚から伸びた薄紫の藤の花が手前に大きく垂れ、風に揺られている様子が描かれています。
フランス印象派の画家クロード・モネ(1840年~1926年)はこの作品に影響され、自宅に太鼓橋のある日本庭園を造り、「睡蓮の池」の絵を描いたとされています。
「鴛鴦(おしどり)」歌川広重(うたがわ ひろしげ)
解説
鴛鴦(おしどり)は、雌雄がつがいでいつも一緒にいるところから、夫婦などの男女が仲むつまじいことの例えで、吉祥文様や「おしどり夫婦」などとして使われています。
花鳥画は、花や鳥、虫、動物などを描いたものですが、東洋絵画の画題だけでなく、浮世絵版画にも描かれ、文化・文政(1804年~1830年)以降、葛飾北斎や歌川広重も手掛けるようになりました。
歌川広重は、「東海道五十三次之内」といった風景画の印象が強いですが、天保年間(1830年~1844年)に多くの花鳥画を刊行しました。広重は柔らかい筆致と色彩で人気を集め、花鳥画の第一人者となりその地歩を確立しました。
「朝比奈(あさひな)」歌川豊広(うたがわ とよひろ)
解説
「朝比奈」は、新春を寿ぎ正月に演じられる曽我兄弟が父の敵の工藤祐経を討つ『曽我物語』によって一般に知られ、庶民の支持を受けて歌舞伎でも演じられた曽我狂言の中の登場人物です。
この作品は、その朝比奈が大きな袋を担いで、打ち出の小槌(うちでのこづち)を振り、大黒の姿をしている摺物(すりもの)です。
歌川豊広の朝比奈は、戯作者・桜川慈悲成(さくらがわじひなり)が毎年の吉例にしていたという歳旦摺物で、現代の年賀状のように正月に知人に配るために、新作の俳諧・狂歌を記し、縁起のよい絵を添えたものです。
摺物は、趣味人の間で、用紙や絵具、彫りや摺りに贅を尽くし、特別に注文した品として流行しました。
「江戸名所四十八景 四十 愛宕山雪中」二代歌川広重
解説
愛宕山(あたごやま)は、標高約26メートルの山で、江戸時代には、海も見渡せる眺望の良い名所でした。
画面の左下にある鳥居から頂上にある愛宕神社までは、男坂と呼ばれる急な階段がありました。右には比較的なだらかな女坂という階段があり、そちらを昇る人も描かれています。
黒い夜空から降る雪が地上を覆い、白一色の風景に草木の緑や朱色の建物や紫色の霞が映えています。
江戸時代、三代将軍徳川家光が愛宕山の梅を見て、馬で登り取ってくるようにと命じました。誰もが躊躇している中、曲垣平九郎という家臣がこの急な男坂を馬で登りきって梅を献上したことから、多くの人が愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、参拝したそうです。
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