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令和6年度企画展(会場内)解説文テキスト

問い合わせ番号:17140-9361-5167 登録日:2024年6月27日

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企画展(開催順)

幡多から波多野へ-古代の秦野…【令和6年4月26日~7月15日】

 

第1企画展示室

1.幡多から波多野へ-古代の秦野

順路の順

 

東側ショーウインドウ1

  • はじめに
     今年のNHK大河ドラマは紫式部を主人公とする平安時代の物語であることから、同時代への関心が高まっています。
     平安時代中期にあたる承和年間頃(931-938)に編さんされた辞書である『倭名類聚抄』[わみょうるいじゅしょう]を見ますと、秦野地域は、相模国に属し、「幡多郷」[はたごう]と呼ばれていたことがわかります。
     京の都から遠いこの地域は、どのような地域だったのでしょうか。市内の遺跡から出土した遺構や遺物、平安時代から大切に受け継がれた文化遺産などを紹介します。
     そして、波多野氏が活躍する平安時代終わりから鎌倉時代までについても当時の史料から解説します。

     
  • 古代の秦野地域
     秦野市は、東・北・西の三方に丹沢山麓が広がり、南を大磯丘陵の一部である渋沢丘陵によって囲まれた秦野盆地と盆地の外である大根・鶴巻地区から成っています。
     縄文時代のこの地域は、丹沢山麓の豊かな自然環境もあり、多くの集落が営まれていました。
     その後の弥生時代以降では、盆地内と盆地外とで大きく様相が異なります。
     明治期の低湿地地図をみますと黄緑色が当時の田を表しており、大根・鶴巻地区では広く水田地帯が広がっていることがわかりますが、秦野盆地では限られた地域にのみに所在しています。
     そのため、コメ作りを主に行う弥生時代以降は、秦野盆地から集落が消えてしまします。



     再び盆地内に集落が出現するのは、古墳時代後期である7世紀なってからのことで、以後、奈良・平安時代と継続的に集落が営まれます。
     下大槻に所在する二子塚古墳[ふたごづかこふん]の石室からは、銀装圭頭大刀[ぎんそうけいとうたち]といった副葬品が発見されており、有力者であったとことがわかります(6世紀末~7世紀初頭)。
     二子塚古墳以後、広畑古墳群(下大槻)や桜土手古墳群(堀山下)といった古墳群が造られるようになるため、前方後円墳という古墳の形態や副葬品から秦野盆地の再開発を主導した人物であったと考えられます。
     銀装圭頭大刀(期間限定展示)は、51cmの長さがあり、鞘口金具、鞘間金具、鞘尻金具は銀製で「唐草文」あるいは「花唐草文」の装飾がされています。
     この大刀は、ヤマト政権の国内の工房で制作されたものといえます。



     6世紀後半になるとヤマト政権は、地方豪族を選び地方支配の長官といえる国造[くにのみやつこ]に任命する国造制[こくぞうせい]を整えていき、ヤマト政権が間接的に地方支配する構造を作り上げていきます。
     『国造本記[こくぞうほんぎ]』によると全国に約130の国造が置かれており、相模国に相当する地域には、「師長国造[しながのくにのみやつこ]」「相武国造[さがむのくにのみやつこ]」「鎌倉別[かまくらのわけ]」があります。
     両国域の遺跡から出土する土師器の坏[つき]は大きな違いがありませんが、土師器の甕[かめ]の整形方法が大きくことなります。師長国域から出土する甕は、胴部がハケ整形であるのに対し、相武国ではヘラケズリの整形が施されています。
     秦野盆地や北金目台地の遺跡から出土する甕は、ハケ整形ですが、北金目の北東の低地から平塚市域、善波峠の東側ではヘラケズリ整形の甕が分布します。
     そのため、秦野盆地と大根・鶴巻地区の一部は師長国に、大根・鶴巻地区の一部は相武国に属していたと考えられています。

     

パネルA

 6世紀後半に整備された国造制[こくぞうせい])ですが、大化の改新によって大きく変更され、国造は統廃合し、その中に五十戸を単位とする人間集団複数からなる「評[こほり]」が建てられます。
 「国造のクニー評―五十戸[さと]」となり、国造は、評督[ひょうとく]・評造[ひょうぞう]などとも呼ばれる官人になっていき、その支配も評へ縮小されていくことで、国造制は解消されていきます。

 


 国造制の解消後、相模国は、足柄評(後に上・下に二分)、余綾評、愛甲評、大住評、高倉評(後に高座郡)、鎌倉評、御浦評にわかれました。
 その後、「五十戸」の表記は「里」となり、大宝元年(701)に制定された大宝令で「評」は「郡」となりました。郷里制は霊亀3年(718)に施行され、「里」が「郷」となりその下に2~3の「里[こざと]」が置かれましたが、天平12年(740)頃に廃止され、行政単位は「国-郡-郷」となり、近代初期まで続くことになります。
 平安時代中期に作られた『倭名類聚抄[わみょうるいじゅしょう]』をみると余綾郡の下には、伊蘇[いそ]、余綾[あまぎ]、霜見[しおみ]、礒長[しなが]、中村、幡多[はた]、金目[かなめ]の郷があげられており、秦野市域は幡多郷[はたごう]と呼ばれていたことがわかります。
 

 

東側ショーウインドウ2

  • 遺跡にみる古代の秦野
      秦野盆地内では、古墳時代後期以降、奈良・平安時代と継続して集落が営まれました。
      今泉地区や本町地区などにおいても、同時期の遺構・遺物が発見されていますが、秦野曽屋周辺に広がる草山遺跡、秦野赤十字病院周辺に広がる西大竹尾尻遺跡群では竪穴建物や掘立柱建物が複数確認されており、大規模な集落が広がっていました。
      相模国の国府[こくふ]といった役所やそれと関連する施設は市内の遺跡からは確認されておらず、国府は近年の発掘調査成果や文献資料から大住郡(平塚市)に所在し、その後、余綾[よろぎ]郡(大磯町)へ移転する説が有力視されています。
      そのため、ある程度の有力者がいる一般的な集落が秦野市域に広がっていました。

 

  • 草山遺跡
      草山遺跡は秦野盆地東側の金目川の支流に挟まれた南に向かって緩やかに傾斜する台地上に立地し、周辺には水田が広がっています。
      これまで20地点の発掘調査が実施されており、縄文時代から近世までの遺構遺物が確認されています。
      中でも、秦野曽屋高校建設に伴う発掘調査(8401地点)では、古代の竪穴建物193軒、掘立柱建物201棟などが確認され、集落の様子が明らかになる成果があがっています。
      南北に細長く広がる草山遺跡ですが、周辺の発掘調査の結果から遺跡の南端から台地中央やや南くらいまでが古墳時代後期の集落が展開し、中央部に奈良時代の集落があり、平安時代では遺跡北端から南端まで広く空間を利用しますが、10世紀中頃になると衰退していきます。



      8401地点での発掘調査の成果では、集落内を東西南北に幅5~13mで格子目状に伸びる空白地帯により区画された居住区が7つ確認されました。この区画は7世紀末から10世紀中頃まで継続して存在していたと思われます。竃また、各区画には、竪穴建物と掘立柱建物が共存しており、同時に存在していたと判明しています。
      この時代の竪穴建物は、竃[かまど]を備えていることから厨房として利用し、掘立柱建物に居住していたと考えらえています。各建物において、大型のものが所在することから集落の有力層(有力農民)が居住していたと思われる遺構も確認さています。
      建物類型の存続時期から、この有力層は7世紀後半から9世紀終わりまで所在しており、その後、集落から離脱しました。その結果、草山遺跡は衰退し、10世紀中頃には長期間続いた集落が終焉を迎えます。

 

  • 西大竹尾尻遺跡群
      西大竹尾尻遺跡群は、西大竹小原遺跡、尾尻西立野遺跡、尾尻八幡神社前遺跡の一部の総称です。
      この遺跡群は、秦野盆地東南に位置し、室川右岸の渋沢丘陵上に立地しています。
      この遺跡群からは、古墳時代後期~平安時代の竪穴建物268軒、掘立柱建物115棟などが発見されており、草山遺跡に匹敵するほどの大きな集落です。
      西大竹尾尻遺跡群においても、大型の竪穴建物と掘立柱建物が確認されており、村の有力者層の居住施設または関連施設と考えられる遺構が発見されています。
      この遺跡群も草山遺跡同様に10世紀には集落が衰退し、消滅します。

 

  • 陶馬[トウマ]
      西大竹尾尻遺跡群から陶馬が出土しています。この馬の左前脚と下半身は欠損しています。頭から胴部までの大きさは8.2cmで、テヅクネにより、ナデやケズリで形が調整されています。
    鞍などの馬具は装着されておらず、「裸馬」の状態ですが、右の首に「十」字沈線が施されています。
    7世紀代のものには馬具を有しているのに対し、8世紀になると馬具を着けていないことが一般的になるため、本遺物は8世紀に属すものと考えられます。
    陶馬は大陸から伝わった風習のひとつで、川や井戸の水に関わる祭祀や雨乞いなどの水に関係するまじないに用いられ、水神に捧げる生贄の代わりとして作られとものと考えられています。

 

  • 集落の終焉
      草山遺跡、西大竹尾尻遺跡群ともに10世紀には集落が衰退し、11世紀まで集落が存続しません。
      この様相は、神奈川県内だけではなく、南関東全域で確認されています。
      その理由としては、様々な指摘がされています。10世紀頃は律令国家から王朝国家へと移行したといわれる時期で、大宝令や養老令で定められた制度が変更され、異なる制度が模索され施行される変動の時期であるため、市内の集落も何処かへ行ってしまったと考えられます。
      しかし、市内には多くの平安仏が残されており、蓑毛大日堂や蓑毛大日堂仁王門には、平安時代後期の作例が多く所在することから、周辺に有力者が居住していたと推定されます。

 

南側ショーウィンドウ

  •  漆部直伊波[ぬりべあたいいわ)と秦野
     漆部直伊波は、『続日本紀』よると天平20年(748)に東大寺盧舎那仏[るしゃなぶつ]造立のために多くの知識を寄進したと記述があり、神護景雲2年(768)に恵美押勝[えみのおしかつ]の乱鎮圧の功労者として朝廷から「大夫」に相応しい従五位下勲六等が賜与され、相模国造に任命された人物です。
     また、父親である良弁[りょうべん]は華厳宗を広め東大寺建立に尽力し初代別当に任じられた高僧です。
     この漆部氏の本貫は大住郡漆窪[うるしくぼ](秦野市北矢名)とする説が有力であると指摘されています。

 

  • 北矢名に所在する遺跡
     漆部氏の本貫があったといわれる秦野市北矢名字漆窪、太夫窪[たいくぼ]には、小南遺跡や鉾ノ木遺跡といった遺跡が所在します。
     これらの遺跡からは古墳時代後期~平安時代までの竪穴建物や掘立柱建物が確認されています。
     漆部氏と直接関係する遺構や遺物は発見されていませんが、同氏が活躍する時期の遺跡があることから、漆部氏と北矢名の物語を思い描いてしまいます。
     小南遺跡からは墨書土器のほか、耳皿と呼ばれる土師器が出土しています。伊勢神宮では、この形の皿を箸置きとして使用しています。
     また、鉾ノ木遺跡では、昨年度の南太夫窪における発掘調査で古代の大型竪穴建物が確認されています。
     

西側ショーウィンドウ1

  •  秦野の平安仏が語るもの
     神奈川県内には平安時代の作と推定される仏像は100ほどあり、そのうち13体の仏像が秦野市内の6寺院に安置されています。
     山岳信仰の対象だった大山への入り口にある蓑毛の大日堂など、残された平安時代の仏像からは当時の秦野の行き交った人々の進行を見ることができるでしょう。

 

パネルB

  •  秦氏とは?
     『古事記』や『日本書紀』等の古代史料によると、応神天皇の時代に日本列島にやってきた渡来氏族で、秦始皇帝の後裔[こうえい]を名乗り、養蚕や機織りの技術を以って朝廷に仕えたとされています。
     秦氏は、氏族の規模が大きく、古代史料に「秦」の字を持つ人物が多く見られる一方で、他の渡来氏族に比べ、中央政府の第一線で活躍した人物が少なく、中央政府と一定の距離を置きながら巨大氏族を組織していたという特徴があります。
     その氏族規模や技術力を背景に、長岡京・平安京遷都に大きく関与したとも言われており、分布地域や、儀礼祭祀など、様々な視点から研究がなされていますが、未だその全容が解明されず、謎多き一族であると言えます。

 

  • 秦河勝とは?
     6世紀末から7世紀前半に秦氏の族長的な役割を果たした人物で、川勝とも表記されます。
     『日本書紀』に厩戸皇子[うまやどのおおじ](聖徳太子)から仏像を賜り、蜂岡寺(現在の広隆寺)を創建した記述(推古11年(603))や、新羅と任那[みまな]からの使者を小墾田宮[おはりだのみや]へ引率した記述(推古18年(610))、平安時代に編さんされた『上宮聖徳太子伝捕闕記(じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき)』と『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』に、物部守屋(もののべのもりや)討伐の際に厩戸皇子に近侍し、守屋討伐に一役かったとされる記述などから、厩戸皇子に縁の深い人物とされています。
     市内蓑毛地区にある大日堂の敷地内に秦河勝[はたのかわかつ]の墓石がありますが、江戸時代に秦氏伝説が定着した際、後世に造られたものと考えられます。

 

  • 問:秦氏はどこから来たの?
    答:
     『日本書紀』の記述によると、朝鮮半島の百済から渡来したとありますが、明確な記述がある史料が少ないため、朝鮮半島の古い地名や、新羅仏教との結びつき等から、新羅から渡来したという説が有力視されています。
     また、さらに西方にそのルーツを求める説などもあり、真相は不明です。

 

  • 問:秦氏の「秦」は秦野の「秦」なの?
    答:
     秦野は秦氏の末裔が開発し、「秦」の字は秦氏に由来していると考えられた時期もありましたが、文献資料はもちろん、考古資料からも秦野と秦氏が結びつく証拠は見つかっていません。
     奈良時代から平安時代にかけて、秦氏の人物が相模国の役人に任命されていることや、江戸時代に秦氏伝説が定着したことが要因と考えられます。

 

  • 弘法大師とは?
     秦野にある「弘法山」「弘法の清水」などの地名にある「弘法」は、平安時代初期の僧である空海[くうかい]を指します。
     空海は奈良時代末の宝亀5年(774)に讃岐国(香川県)で生まれ、遣唐使として唐(今の中国)へ留学し密教を学び、日本へ帰国後は紀伊国(和歌山県)にある高野山で金剛峰寺を総本山とする真言宗の開祖となりました。
     同じ頃に活動した天台宗開祖の最澄とともに日本の仏教界へ大きな影響を与え、教えは以後も長く継がれています。書道に優れ「弘法も筆の誤り」ということわざで知る人も多いでしょう。
     平安時代初期の承和2(835)年まで生き、後に贈られた諡号[しごう]により、弘法大師とも呼ばれています。

 

  • 問:空海(弘法大師)は、本当に秦野に来たの?
    答:
     弘法大師伝説は日本全国にあり、九州から北海道まで三千以上の数があるといわれています。
     空海が一生のうちにその全ての土地を訪れたとは考えられず、多くは空海が実際に行った事柄ではないでしょう。
     秦野については、近隣でも空海が来訪した可能性を示す史料や伝説が確認できず、真相は不明です。

 

  • 問:なぜ全国で多くの弘法大師伝説があるの?
    答:
     平安時代には、空海の教えを広めるために高野山から日本全国を巡り歩いた「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる人々がいました。
     その人々が行った事績や語りが弘法大師の伝説として残ったと考えられます。また、神の子を指す「大子」[おおご・だいし]の伝説が、字から大師の伝説となったという説もあります。

 

 

  • 相模国波多野庄 ~藤原道長の子孫が受け継いだ荘園
     平安時代末期に藤原(ふじわらの)忠実(ただざね)が記したと推定される『執政所抄[しっせいしょしょう]』などの史料により、当時の波多野には藤原道長[みちなが]から続く摂政関白を受け継いだ藤原氏の荘園が存在していたことがわかります。
     藤原氏の前は儇子[けんし]内親王の所有で、父の小一条院[こいちじょういん]から譲渡されたとみられます。
     この小一条院には源頼義[よりよし]が判官代として仕えていました。
     頼義は房総で起きた平忠常[たいらのただつね]の乱を父の頼信[よりのぶ]とともに平定する武功をあげた後、相模国に拠点を作り、何らかの方法で管理するに至った三崎や波多野の地を小一条院へ寄進したと推定されます。
     この時の波多野へ頼義に仕える佐伯氏が荘官(荘園管理者)として派遣され、その子孫が波多野の名字を称したと考えられています。

 

  • 執政所抄 十二月

    廿八日。冷泉院殿御忌日事
      色紙摺経一部、笏賀
      素紙経五部
      二部 波多野  二部 粟倉
     (後略)


    【解説】
     荘園として波多野の名が見られる最初の史料です。
    『執政所抄[しっせいしょしょう]』は摂関家の藤原氏で執り行う年中行事を子孫のために記した記録で、執筆の年代は不詳ですが、藤原忠実が執政する時代の元永元年(一一一八)から保安二年(一一二一)に記され、後に追記されていったと考えられています。
     内容は、冷泉院殿(儇子内親王)の忌日に納める物のうち、素紙経(装飾のない写経)五部のうち二部を波多野から負担するというものです。
     なお、笏賀は現在の鳥取県にあり、粟倉は岡山県にある地名です。

 

  • 近衛家所領目録
    一請所
     (略)
     同 国(信濃国)   相模国
     英多庄(埴科郡)  三崎庄(三浦郡)
     冷泉宮領内       冷泉宮領内

     同 国(相模国)   甲斐国
     波多野(中郡)   小笠原(巨摩郡)
     冷泉宮領内       篤子中宮領内
    (略)

     建長五年十月廿一日注出之

    ※請所[うけしょ]……現地在住の土地管理者が、荘園領主(土地の持ち主)に対して一定額の年貢納入を請け負い、代わりに年貢徴収など全面的な管理を委任される地。


    【解説】
     鎌倉時代の建長五年(一二五六)に記された近衛[このえ]家の所領目録です。原本は失われ、室町時代の写しが陽明文庫で保存されています。
     近衛家は藤原忠通[ただみち]の子である基通(もとみち)を始祖とする家で、同母弟の兼実[かねざね]を祖とする九条家とともに、鎌倉時代初期に分立した家です。
     この所領目録は、近衛家からさらに鷹司[たかつかさ]家が分立する際に、所領を明確にする目的で作られたとされています。
     内容は、私的な相伝地や、一定の権利を保有して寺社に寄進した所領など、畿内を中心に一〇〇ヶ所以上の地名が記されています。
     波多野はその中でも請所の一つでした。
     相模国では他に三浦郡三崎が同じく冷泉宮領から継がれた請所として記されています。

     

西側ショーウィンドウ2

  •  平安時代から鎌倉時代へ ~東国に現れる武士政権の萌芽~
     平安時代中期の承平5年(935)、常陸国(茨城県)で起きた平氏の争いは後に「平将門の乱」と呼ばれる戦となり、同時期に瀬戸内海で起きた藤原純友[すみとも]の乱とともに朝廷へ衝撃を与えました。
     乱の鎮圧後も東国では抗争が続き、長元元年(1028)「平忠常の乱」にも影響します。
     これらの乱は首謀者も鎮圧も地方在留の平氏・源氏・藤原氏といった軍事担当の貴族で、自ら武力で紛争を解決する人々でした。
     将門の乱が起きるのは藤原道長が生まれる30年ほど前で、都の朝廷で藤原氏が権勢の最盛期へ向かう頃。東国では武による乱を鎮圧するため武に頼る状況だったのです。
     やがて皇族・摂関家の抗争から起きる「保元の乱」では武力戦で都を焼き、世は平家と源氏を主とした戦乱の時代へ進みます。

 

  • 平将門の乱 ~後の武士の台頭を決定づけた武力による反乱と鎮圧~
     平安時代初期の東国に皇族の高望王[たかもちおう]が平の姓を賜り上総介[かずさのすけ]となって下り、その子らが周辺で勢力を広げるようになりました。
     そのうちの下総国(千葉県)に所領を持つ一族だった平将門は、承平5年(935)に一族内の争いで戦となり、常陸国(茨城県)で叔父の国(くに)香(か)を討ちます。
     この勝利で将門は関東で勢力を広げますが、在地の豪族と国守の紛争に介入し国守を追い出したことで朝廷から反逆とされ追討軍が派遣されました。
     この軍を率いて将門を討ち取ったのが、国香の子である平貞盛[さだもり]と、下野国で強い軍事力を持っていた藤原秀郷[ひでさと]です。当初は平氏一族内の紛争でしたが、背景には、将門など地方の軍事貴族が摂関家藤原氏など中央の公家との結びついていたことや、派遣された官人と在地の豪族の争いが複雑に絡み、大きな乱になったと考えられます。

 

  • 藤原秀郷 ~説話も残る兵(つわもの) 将門を討った英雄~
     藤原秀郷[ひでさと]は、百足退治の説話などに登場する俵(田原藤太[たわらのとうた]の名でも知られます。
     父は下野国(栃木県)国府の大掾[だいじょう](三等官)をつとめる官人でした。
     しかし、秀郷は内容は不明ながら「罪人」として流刑とされた記録があります。ですが、在地で勢力があり軍事力を持つ秀郷に国府が対抗できず、刑は実行できなかったようです。
     このように関東で強い軍事力を持つゆえに、秀郷が将門の乱を鎮圧に起用されたと考えられます。
     乱の後、秀郷は朝廷から従四位に叙せられました。これは同じ追討軍の平貞盛が従五位上であることを見ると破格の賞であり、朝廷が功の大きさを認めたことがわかります。
     後に説話で武勇が語り継がれ、東国では系図でこの秀郷を祖とする秀郷流を称する武士の一族も現れました。波多野氏もさまざまな系図で秀郷流と記されています。

 

  • 平忠常の乱 ~源氏が東国に基盤をつくるきっかけとなった戦~
     長元元年(1028)、房総地域を中心に勢力を築いていた平忠常[ただつね]が、安房国に赴任した安房守惟忠を殺したことから始まる乱です。
     朝廷は平直方[なおかた]らを派遣しますが3年経ても平定できず、改めて源頼信[よりのぶ]らが派遣されると、忠常は戦わずして降伏したとされています。
     この乱は平氏同族間の対立も絡んでいたとみられ、良文流[よしぶみりゅう]の忠常が貞盛流[さだもりりゅう]の直方による追討で頑強に抵抗したのに対し、後任の源頼信に恭順したのは、その影響と考えられます。
     波多野氏祖とされる佐伯経範[つねのり]もこの頼信の軍に属していました。
     乱後、直方は鎌倉の屋敷を頼信へ譲り、その子の頼義[よりよし]へ娘が嫁ぎます。後に頼信の子孫である頼朝が鎌倉幕府を開くきっかけになりました。

 

  • 前九年・後三年の合戦 ~河内源氏が武家の頭領たる起源として語り継がれた~
     前九年合戦[ぜんくねんがっせん]は、平安時代中期の永承6年(1051)から康平5年(1062)、奥州(東北地方)の有力な豪族である安倍氏が反乱し、陸奥守・鎮守府将軍に任じられた源頼義が安倍氏を征討したとする戦です。
     当初は朝廷側が苦戦し、天喜5年(1057)に朝廷側が大敗した黄海[きのみ](岩手県一関市)の合戦では、波多野氏の祖である佐伯経範の戦死が軍記で語られています。
     この後、永保3年(1083)に起きる「後三年[ごさんねん]合戦」は、頼義の子である義家が陸奥守として奥州へ赴き介入した戦ですが、朝廷はこれを私戦とし、義家を陸奥守から解任した上、彼らに恩賞を与えませんでした。
     そこで義家は従ってきた者達へ私財から恩賞を与えます。これにより逆に名声が高まり、後の世にも語り継がれました。この義家の子孫が源頼朝へ繋がります。

 

  • 保元の乱 ~平家・源氏の政治的な影響力を強めた戦~
     保元元年(1156)。後白河天皇、崇徳[すとく]上皇の対立と、摂関家の藤原忠通[ただみち]と頼長[よりなが]の対立が勃発し、その解決のための武力として平清盛らの平家、源義朝らの源氏が動員され「保元の乱」が起きます。
     戦では兄弟や親類が敵味方に分かれ、後白河天皇方(藤原忠通・平清盛・源義朝)が勝利しました。
     戦後の処理は厳しく、上皇に対しては400年途絶えていた配流により崇徳上皇が讃岐へ流され、武家に対しては約200年途絶えていた死刑が執行され、平清盛が叔父の忠正とその子を、源義朝が父の為義とその子を斬首しました。
     この戦により摂関家の勢力が弱まり、一方でその武力を頼みにされた平家・源氏の存在感が強まったことから、公家から武家の世への転換点だったともされています。

 

  • 平安時代の終焉 ~源平の合戦から鎌倉幕府へ~
     保元の乱で同じ陣営だった平清盛と源義朝は後に対立し、平治元年(1160)には後白河上皇や上皇近臣の対立も絡み「平治[へいじ]の乱」が起こります。
     この戦で源義朝が敗れ死亡し、やがて平清盛が武士でありながら政治の実権をとるようになります。
     しかし平家一門の政権独占が強まると反発を招き、治承4年(1180)に後白河法皇の皇子である以仁王[もちひとおう]を旗印に源頼政らが平家打倒を掲げて挙兵、以後は義朝の子である頼朝などによる平家への反乱が各地で勃発します。
     「治承寿永[じしょうじゅえい]の乱」と呼ばれるこの一連の戦は、寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで平家が族滅し終焉しました。
     この後の頼朝は、対立した弟の義経の討伐を端緒として建久元年(1190)に奥州平泉[おうしゅうひらいずみ]を拠点とする藤原氏を征し、鎌倉を中心とした武家政権が確立しました。
     

ショーケース1(寺山中丸遺跡)

  •  寺山中丸遺跡
     寺山中丸遺跡は、東に中丸沢、西に小蓑毛沢の二つの沢に挟まれた北東から南西にのびる標高約202~207mの台地上に位置しています。
     平成25~28年度まで実施された新東名高速道路建設に伴う発掘調査で、旧石器時代~平安時代までの遺構遺物が確認されています。
     平安時代の調査では、竪穴建物25軒、掘立柱建物5棟以上、土坑211基などが確認されています。
     出土遺物では、「子」「油坏」といった墨書土器が出土しているほか、瓦、瓦塔(基礎部分)が出土しており、遺物組成から宗教的要素を持つ集落の可能性が指摘されています。
     市教育委員会では、平成4年度に同地点の一部の調査を実施しており、平安時代の土師器坏や瓦などが確認しています。

 

 パネルC(海老錠)

  •  稲荷木遺跡出土の海老錠
     戸川に所在する稲荷木遺跡は新東名高速道路建設事業に伴い発掘調査された遺跡です。
     平安時代の竪 穴建物が 60棟以上発見された規模の大きな集落です。これら建物の配置をみると重なるものが少ないことからほぼ同時期に営まれていたと考えられます。
     海老錠が出土した竪穴建物は、水無川に沿っ た平坦面に位置しています。
     他の竪穴建物ではカマドが設けられますが、この建物には認められず、壁際には柱穴が並んでいます。固く踏み固められた床面には、焼土・炭化物・灰などが混じった炉が複数発見されていることが大きな特徴です。
     さらに床下から海老錠と呼ばれる鍵が出土していることが特筆されます。床下から出土している状況から地鎮などに伴うものと考えられます。
     海老錠は大規模な集落や奈良・平安時代の役所などの遺跡で出土する傾向があり、稲荷木遺跡の性格を考える上で、重要な情報を提供するものです。

 

  • 取鍋に転用された土師器
     寺山大仙寺遺跡から出土した奈良時代後半~平安時代前半の遺物の中には取鍋 [とりべ]として使用された土師器坏があります。
     取鍋は、金属製品を鋳造する際に溶融した金属をすくって型に流し込むための柄杓[ひしゃく]のような容器です。
     今回出土した土師器坏には銅とみられる溶融滓が付着しています。ほかにも成分の分析をする必要がありますが、赤色顔料らしき痕跡が残る須恵器坏の細片も見つかりました。
     これらは通常の集落遺跡には見られない特殊な遺物です。

     近傍にある寺山中丸遺跡では、仏教に関わる遺物が出土したことから、村落内寺院の存在が指摘されています。今回見つかった遺物も銅金具や朱塗りの仏具の製作や修繕に用いられたものだったかもしれません。
     寺山中丸遺跡の背後の丘陵頂上部にあたる寺山大仙寺遺跡は、村落内寺院に関連する何らかの施設があった可能性があります。

 

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所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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