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震生湖

問い合わせ番号:16173-2091-5315 更新日:2023年8月25日

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国の登録記念物

「震生湖」は、国登録記念物(動物、植物及び地質鉱物関係)に登録されています。

 震生湖

登録日

令和3年3月26日

登録対象物

名称

震生湖(しんせいこ)

所在

秦野市今泉字釜窪1228番1ほか

所有者

秦野市ほか

登録面積

秦野市分 21,034.71平方メートル

中井町分 11,504.00平方メートル

特徴等 

 震生湖は、大正12年(1923)9月1日の関東大地震により、斜面が幅約250メートルにわたって地すべりを起こし、滑落した土砂が河道を閉塞して生じた堰止湖です。ここでは、震災から100年近く経過しても「湖面」「崩落地」「堰止地」が確認できます。当時、地震による崩壊地が多数生じましたが現存するものは希有です。

 震生湖を誕生させた地すべりの内部構造について、京都大学防災研究所が平成27年(2015)に行ったボーリング調査では、地表から17m程度の深さにある約6.6万年前に堆積した東京軽石層にすべり面があり、その上部の火山灰土と火砕流堆積物がすべったものであることが明らかになっています。

 震生湖は形成直後から専門家による調査研究がなされており、地元有志によって災害直後の大正13年(1924)に「震生湖」との名がつけられ、地震災害の鎮魂の場所や風光明媚な観光地として利用が継続されてきました。

 また、近年では市民による里山保全地としての管理も始まっています。これらは、災害による地形をほとんど改変することなく、利活用が進められています。

 以上により、震生湖は関東大地震によって誕生した「現存する堰止湖」として地震による地形変化の規模の大きさを今日に伝える意義深い例であるとともに、自然災害と人々の関わりを考える上で貴重な資料ともいえます。

 

震生湖と寺田寅彦

 昭和5年(1930)9月には7日と12日の2度にわたって東京帝国大学地震研究所の寺田寅彦らの測量調査がなされるなど注目されてきました。この調査は、「秦野に於ける山崩」として『東京大学地震研究所彙報(いほう)』第10号第1冊に報告されています。

 寺田寅彦は地球物理学者でしたが夏目漱石門下の文学者としての一面も持っており、震生湖を訪れた際に、3つの俳句を詠んでいます。

  • 「山裂けて 成しける池や 水すまし」
  • 穂芒(ほすすき)や 地震(ない)に裂けたる 山の腹」
  • 「そば陸稲(おかぼ) 丸う山越す 秋の風」

 湖面近くに「山裂けて~」の句碑がありますが、これは秦野市観光協会によって建碑されたもので、寺田と同門で無二の親友であった文学者の小宮豊隆が揮毫(きごう)し、昭和30年(1955)9月1日に建設披露式が行われました。

 「穂芒や」の句碑は本町小学校に建っており、阪神淡路大震災の起きた翌月にあたる平成7年(1995)2月に、本町小学校の卒業生により建碑されたもので、『学校生活の思い出とともに震災の怖さや教訓を忘れずにいてほしい』という思いから制作されました。

 そして、「そば陸穂~」の句碑は、南地区の地域団体「南はだの村七福神と鶴亀めぐりの会」によって、『震災の教訓を後世に伝えるためにも震生湖のシンボルとして大切にしていきたい』との思いから、令和4年(2022)9月に「大震災埋没者供養塔」のある地に建碑されました。

 

誕生から100年を迎えて

 令和5年(2023)9月1日をもって、震生湖が誕生した関東大地震から数えて100年の節目を迎えました。
 震生湖は震災の痛ましい傷跡でもあることから、災害への備えの重要性を伝え、安全な未来を築くための知識と意識を育んでいくための大切な地域資源として、また、自然豊かで皆に愛される観光地としても、後世に引き継いでいきます。

 

参考外部リンク

神奈川県ホームページ
関東大震災100年事業特設ページ内・震生湖と湖畔(秦野市平沢・今泉、中井町境別所)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/j8g/100th/ikou/18.html

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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