◯9月1日号4面5面 5 平成27年(2015年)9月1日 広報はだの 平成27年(2015年)9月1日 4 炎が舞い 「花を添えたいという気持ち。     今から楽しみです」 火に祈りをささげて  平安時代、真言宗の開祖として世に仏教を広めた空海。弘法大師とも呼ばれる、この歴史上の人物と秦野の関わりは深く、修行を積んだとされる山は、そのまま「弘法山」と名付けられた。  たばこ祭の「弘法の火祭」は、弘法大師が五穀豊穣を祈願して松明をたいたという故事にならったもので、第9回の昭和31年に始まった。当時は、弘法山山頂で葉タバコ豊作の祈願祭を行った後、打ち上げられる花火を合図に、松明を手に一斉に下山した。入船橋まで歩くと、竿灯に火を移し市内をパレード。これが、たばこ祭と火をつなげる礎となった。  昭和35年からは、弘法山のほか、現在の会場、水無川河川敷にも松明を置き、点火するように。そのころは、松明の材料に、葉タバコの残幹を使っていた。  第40回の昭和62年に始まった「ジャンボ火起こし綱引きコンテスト」。これを転機に、優勝チームが起こした火を種火として、弘法大師一行が水無川河川敷までトーチを運び、護摩壇や松明に点火するというストーリーを組み立てた。記念となるこの年は、市役所前と秦野駅に護摩壇を置き、市民から祈願書を受け付け、集まった全てを河川敷でたきあげた。また、煩悩の数である108束の松明を置き、火を灯した。  火をテーマとする夜の祭典は、今では、たばこ祭に欠かせない伝統行事として定着している。夕闇の中、弘法大師に扮した市長が、採火した火を掲げながら、本町小学校から水無川河川敷まで自治会長らと練り歩く。辺りを埋め尽くす観衆の中、市長が祈りを込めて護摩壇に点火。これを合図に、川沿いに置かれた松明にも次々と火が灯され、夜空に赤々と燃え上がる。幻想的に鳴り響く太鼓の音と川面に映し出される炎の色は圧巻。その後、松明の余韻を残しながら、たばこ祭のフィナーレを飾る、仕掛花火、打上花火へとつながっていく。 祭りに新しい息吹を 「一人一人が職場で身に付けたスキルを一つの形にできて、しかも地元に貢献できることは、うれしいですね」 と話すのは、「秦野工業協同組合ジュニア会」会長、大久保政彦さん(49歳)。ジュニア会は若手工業経営者や企業の2代目、3代目を中心とする会で、メンバーは27人。創立40周年を迎えた今年、弘法大師役の市長が持つトーチ作りを名乗り出た。  手掛けるのは、一般的な木製ではなく、金属製のトーチ。メンバーそれぞれの専門技術を生かしながら、廃材となったステンレスの板などに、プレスやレーザーカットを施し、部品を組み合わせながら作っていく。3年前にも製作した実績を持つ。 「一番の見せ場ともいえるシーンに、花を添えたいという気持ち。今から楽しみです」  入会8年目の西山忠宏さん(菩提・32歳)は、笑顔を見せる。昔、胸躍らせて出掛けた、たばこ祭。数ある催しの中でも、水無川沿いで赤々と松明が燃え盛る、弘法の火祭は、「普段見ている景色とはまるで違う」と幼心に思わず引き込まれたという。前回とはまた一味違うトーチで祭りを盛り上げたいと意気込む。  5年後の東京オリンピック・パラリンピックで使う聖火トーチの製作も念頭においているというジュニア会。東京都へ企画・製作を願い出る準備を進めているが、まずは、PR用の試作品として、たばこ祭で披露したいと思いを強める。 「聖火トーチが実現できれば、秦野を全国に発信できるいい機会にもなるのでは。市制施行60周年の節目の年に、試作品を地元でお披露目できて最高。皆さんと一緒に気持ちを高めていきたいですね」  今後に弾みをつけたいと目を輝かせる大久保さん。  「失敗してもいいから、一歩踏み出す勇気が必要。伝統あるたばこ祭にも新しい風を吹き込んでいきたい」一丸となったジュニア会メンバーの勢いは止まらない。今年の弘法の火祭は、行列の先頭でひときわ輝くトーチに注目し、熱い思いを感じてほしい。 弘法の火祭 「たばこ祭」と「火」というつながりの礎になった、2つの伝統行事。昔と今をつなぐ物語が、ここにある。 竿灯・フロートパレード 時を越えて 「君」を愛せるか。 「少しずつ見えてくる、  そのワクワク感が     たまらなかった」 変わりゆく光 「牛が導く光のパレード」  そう呼ぶのも、なんだか面白い。  闇夜に引き継ぐ弘法大師の炎。そんな厳かな炎をちょうちんの光に変え、牛はのんびりと山車を引く。猛々しく燃え盛る松明の炎が、一変して穏やかな光になる。先人たちは、その風情を「関東を代表する光景」として疑わなかった。それが、フロートパレードの始まり。  秦野市が誕生した翌年の昭和31年、弘法の火祭とともに、それは始まった。当時の名は「竿灯行進」。その名のとおり、タバコの葉に見立てた竿に、15個ほどのちょうちんをぶら下げる。弘法山から入船橋まで下山した火祭の一行が、松明から竿灯に火を移す。それらを掲げ、2時間半かけて目抜き通りを練り歩く、市民の有志と牛の姿。祭りの最後を輝かせた。 「タバコ耕作者の祭りから、まち全体の祭りにしたい」 そんな願いが、込められていた。  その後の竿灯車は、世相を写し出すように形を変え続けた。飾り付けには、当時の人気キャラクターの姿。力仕事は、牛から自動車へ。そして、いつしか弘法の火祭から独立し、一つのパレードになった。  タバコ耕作が終わり、祭りが第40回の節目を迎えた昭和62年、見失いつつあったコンセプトに待ったをかけた。 「祭りは、地域の文化や産業など、その存在を外に知らせる大きな使命がある」 「たばこ祭」として、伝統は残したい。でも、このままじゃいけない。そこで加わったのが、秦野を代表する花や建築物のデザインだった。 「秦野は、たばこだけじゃない」 そんな思いも、あったのかもしれない。そうして、「魅せる飾り付け」を身にまとった竿灯車。その名を、船を使った西洋の移動舞台に由来する「フロート車」に変えた。  バブル景気を迎えると、より自由で派手なものが好まれた。フェスティバル要素の強い、「市民参加型の祭り」が熱を帯びる。ピーク時には、商店街や企業など、19団体がパレードに参加し、にぎわいを見せた。  しかし、一転して訪れた不景気。製作費の負担や担い手不足で参加団体は減り続け、第61回の平成20年、フロートパレードは姿を消した。  途絶えたあの日の炎。しかし、心の中に、まだそれは残されていた。 変わらないもの  虫の音響く、静かな秋の夜。会場のにぎわいから少し離れた住宅地に、「それ」はやってきた。  「来たよ」おじいちゃんの、その一言が合図。一目散に家を飛び出し、路地で待ち構える。  「ソレ 秦野葉たばこ 畑つくり」秦野たばこ音頭が、静寂を包み込む。 「光が近づく。あのカーブを曲がって、少しずつ見えてくる、そのワクワク感が、たまらなかった」  稲垣潤一さん(緑町・37歳)は、フロートパレードが青春そのものだった。幼いころ、祭りが始まる前には商店街で製作中の車を探し回るのが恒例だった。 「友達の多くは、商店街の子供。フロート車に乗れる彼らが、うらやましかった」  中学、高校もカメラ片手に追いかけ続けた。平成11年、社会人になった20歳の年に、とうとう決意した。 「自分のフロート車を作ろう」  商店街の会長に手ほどきを受け、友人と製作チームを結成。車の外観となる木材の加工など、電気の配線以外は、全て自分たちでこなした。 「車だと思わせないこと。それが、 一番大切なんです」  武骨な2トン車のレンタカーと格闘の末、念願の「初乗船」が実現。一個人が作ったのは、稲垣さんが初めてだった。その後も毎年参加し、作ったフロートは10台以上に上る。 「満足した作品は一つもない。でも、それが次の製作の原動力」  そんな中にも、思い入れの強い作品がある。教会をモチーフにしたフロート。自分の結婚式を挙げた年だ。 「前に、僕のフロートを一目見て、すごいと目を輝かせてくれた人がいた。それが、今の妻。たばこ祭に、祝ってもらいたかった」  その後、パレードが休止になると、稲垣さんは検討委員会に出席した。 「現状は受け止める。でも、簡単になくしていいものじゃない」  若手のアーティストなど、さまざまな団体に参加を呼び掛け続け、一昨年、ついに3団体の参加が決定。中学生が作る「手づくりらんたん」と共に、フロート車は再び秋の夜に浮かび上がった。  6年ぶりのパレード。町中を行進中、寝たきりのお年寄りが、窓から手を振り、稲垣さんに笑顔で言った。 「やっと、お祭りが来たね」  待っていてくれた。みんなの心に、光は灯り続けていた。 「ワクワクを届けたい。まちを元気にしたい。昔の人も、きっとそうだったんじゃないかな」  伝統を受け継ぐ力は、ここにある。パレードの姿形は変わっても、それは、今も昔も変わらない。 「見て楽しい。参加すれば、もっと楽しい。それを伝えられたら」  激しい炎のような思いが、今年も優しい光をつくり出す。 光が奏でる