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WEB再現 秦野たばこ資料展 PART2(平成19年度開催)

問い合わせ番号:10010-0000-2193 登録日:2020年11月9日

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平成19年9月29日~9月30日 本町小学校体育館

平成18年度たばこ資料展ポスター

はじめに

 文化財資料展は、市民の皆様に市内に伝承される文化財について理解していただくために開催するものです。

 この度、秦野市文化財保護委員会委員の安本利正氏から煙草に関する様々な資料の寄贈を受けました。

 また秦野たばこ祭り第60回という節目の年でもあり、ここで煙草耕作の歴史、秦野の産業と煙草のかかわりについて振り返ります。

秦野煙草耕作の歴史

煙草の伝来

 日本に初めて煙草が伝えられたのは16世紀半ば頃、南蛮文化と共に持ち込まれたと言われています。

 秦野への煙草の伝来については諸説ありますが、秦野の煙草に関する最古の史料が寛文6年(1666年)の「渋沢村年貢皆済証文」であることから、この頃までに秦野地域に煙草が伝来されたと考えられます。宝永期_(1707年)の富士山の噴火で田畑が壊滅し、それまで作られていた他の作物の耕作が困難な状況となる中、火山灰土での耕作が可能な換金作物として多く作られるようになりました。喫煙の風習が拡大したことも、秦野地域の煙草耕作が盛んになった原因の一つと言われています。

 明治時代に入ると、煙草耕作農家の技術革新によって秦野煙草の品質は向上し、秦野葉は銘葉としてその評判を全国に知らしめました。昭和59年(1984年)にその歴史に幕を下ろすまで、煙草耕作は秦野の産業の中心としてこの町を支えてきました。

絵葉書に描かれた煙草耕作風景
絵葉書に描かれた煙草耕作風景

秦野葉と黄色種(米葉)

 秦野地域で耕作されていた葉煙草は、「秦野葉」と「黄色種(米葉)」の2種類がありました。

秦野葉

 在来種である秦野葉は、煙管で吸う刻み煙草用で、まろやかで喉を刺激しないと評判であり、単品ではなく他種と混ぜ合わせて用いられました。しかし収穫量が少なく、病気に弱く、多くの労力と肥料が必要で、収穫した葉は天日で乾燥させなければならず、乾燥には高度の技術が必要でした。

黄色種(米葉)

 黄色種(米葉)は両切りの紙巻煙草用で、日本では明治35年に兵庫県で耕作が開始されました。葉が肉厚で幹も太く、デリケートな扱いを要求される秦野葉に比べると耕作、収穫の手間は少なく、葉の乾燥も乾燥室を使用するため温度管理が可能になり、高度な技術も必要ありませんでした。

秦野葉
秦野葉 

黄色種(米葉)
黄色種(米葉)

秦野の煙草耕作技術

 秦野の煙草耕作技術は高く評価されていました。専売局は秦野の煙草耕作法の講習を実施し、全国の煙草耕作者がその技術を学びに秦野試験場を訪れました。また秦野の煙草耕作農家の中から煙草耕作指導員が選ばれ、他県の煙草耕作地へ技術指導に赴き、秦野の煙草耕作技術を全国に広めました。

秦野煙草耕作技術の始祖 草山貞胤(1823年から1905年)

 平沢村出身の貞胤は、江戸時代末期頃から落葉の発酵熱を利用して煙草苗を育てる「揚床法」、収穫量を3倍にした「正条密植法」、葉煙草の品質を向上させた「木枯し乾燥法」などの耕作技術の改良に努め、後に門下生の石塚重太郎が実用化させた水車利用の煙草刻み機械を発案しました。元来、耕作技術は各煙草耕作農家の秘伝として他家には教えませんでしたが、貞胤は自身の新しい技術や研究の成果を他者に広めることを惜しまず、県内外の様々な耕作地に足を運び、多くの優秀な門下生を育てました。

秦野煙草試験場の技手 関野作次郎(1859年から1935年)

 名古木村出身で貞胤の門下生であった作次郎は、明治32年秦野に煙草試験場(曽屋)ができると煙草栽培技術開発を担当し、秦野式改良揚床を完成させ、煙草種子精選器、煙草種子点播器などを考案しました。専売局は全国的な煙草技術体系を作るため、彼を煙草試験場に採用したとも言われています。専売局は現地で直接技術指導をする煙草耕作指導員の制度を定めましたが、その指導員の育成にも力を尽くしました。

関野作次郎が考案した煙草種子点幡機
関野作次郎が考案した煙草種子点幡機

民営時代の煙草生産

 明治の初め頃、秦野地方の煙草耕作農家の生産技術には大きな格差がありました。しかし草山貞胤を始めとする篤農家によって、高品質で生産量が多くなるように改良が進められた生産技術は、明治10年頃から一般に普及していきました。これにより秦野地域の葉煙草の生産量は飛躍的に増大しました。

 大住郡で明治17年に488ヘクタール程度だった煙草耕作地は、明治25年に約748ヘクタールとその後も増加の一途をたどり、製造能力も足踏みの煙草刻み機械及び水車利用の煙草刻み機械の導入により大きく躍進しました。また、当初横浜の市場だけに限られていた秦野葉の出荷も、神奈川県下、東京市(東京都の一部)、関東各地にまで拡大されました。

 これらの増加の背景には、煙草の需要が大変高かったということを推測することができます。

民営時代の煙草製造

 明治31年の専売制が施行される以前から、秦野町では葉煙草の売買や、煙草製造などが行われており、町は賑いを見せていました。

 煙草は連作ができないため、かわりに栽培された菜種や落花生の加工業、加工器具の製造修理の鍛冶屋、肥料商などの関連産業を多く誘発しました。

 明治27年の記録では秦野町には80人の煙草仲買人がいました。仲買人は、煙草耕作農家から収穫した葉を購入し、葉のしを行って製造者に売却し、利益を上げていました。煙草耕作には多額の肥料購入資金を要するため、耕作農家が仲買人から資金を借りることも多くありました。

 また同年、町には53人の煙草製造者がいましたが、多くの製造者は木造平屋の小規模な製造場で作業をしていました。煙草刻み機械も共用で借りており、煙草製造場の経営は財政的に安定したものではなかったという記録が残っています。

民営時代の煙草製造

 明治31年の専売制が施行される以前から、秦野町では葉煙草の売買や、煙草製造などが行われており、町は賑いを見せていました。

 煙草は連作ができないため、かわりに栽培された菜種や落花生の加工業、加工器具の製造修理の鍛冶屋、肥料商などの関連産業を多く誘発しました。

 明治27年の記録では秦野町には80人の煙草仲買人がいました。仲買人は、煙草耕作農家から収穫した葉を購入し、葉のしを行って製造者に売却し、利益を上げていました。煙草耕作には多額の肥料購入資金を要するため、耕作農家が仲買人から資金を借りることも多くありました。

 また同年、町には53人の煙草製造者がいましたが、多くの製造者は木造平屋の小規模な製造場で作業をしていました。煙草刻み機械も共用で借りており、煙草製造場の経営は財政的に安定したものではなかったという記録が残っています。

民営時代の煙草製造システム
民営時代の煙草製造システム

煙草専売制

政府は日清戦争後の明治31年「葉煙草専売法」を、明治37年「煙草専売法」を公布しました。これは日露戦争の財源を確保するために、多額の税収を見込むことができる煙草を専売制にしたものです。煙草耕作農家は、生産した葉煙草を政府へ納付することが義務化され、納付時に品質に応じた賠償金が与えられました。

専売制の実施は、煙草耕作農家に安定した現金収入を保証すると共に、技術改良に消極的な耕作農家にも新しい技術での耕作を強制しました。この時、全国で新しい技術の教科書的な役割を果たしたものが『秦野地方煙草耕作法』でした。

政府は煙草の自家用栽培、民間製造への従事を禁じ、違反者への罰則を定める一方、奨励金の交付制度、災害等の補償金交付制度も制定し、「恩」と「威」で専売制を遂行しました。
このような体制のもと、秦野地方の葉煙草生産は大正後半から昭和初期にかけて、生産量及び技術面において最盛期を迎えました。

専売局時代の煙草製造システム
専売局時代の煙草製造システム

煙草生産の衰退

 大正末期頃から下級品の両切煙草の人気が出始め、上級品の刻み煙草の需要が減少しました。景気の悪化と共に下級品が売れるようになり、専売局は両切煙草用の黄色種(米葉)の栽培を拡大しました。

 一方、秦野葉は良質で、刻み煙草、両切煙草の双方に適していたため、秦野地域では秦野葉の生産が続きましたが、秦野葉の耕作は高度な技術が必要で生産量も少ないため、秦野試験場は昭和14年、耕作技術が容易で大量生産が可能なように品種改良を行いました。しかし戦時中は食糧の生産が優先され、煙草の作付面積は減少しました。

 昭和24年、日本専売公社が誕生しました。秦野地域では秦野葉の生産量を増加する方針を公社は持っていましたが、高い賠償金につられ秦野葉から黄色種の栽培へ移行する煙草耕作農家が増え、さらに農業から離れる人も多くなり、昭和49年には秦野葉の生産が、昭和59年には秦野の煙草耕作そのものが幕を閉じました。

秦野の産業と煙草のかかわり

県統計から見る煙草耕作と商業の発展

 このグラフは明治30年から明治45年の『神奈川県統計書』から、中郡(当時秦野地域が含まれていたエリア)のデータを抜粋して作成しました。

 葉煙草の収納量および賠償金額の上昇と共に、秦野地域の商店が発展していく様子がわかります。

県統計から見る煙草耕作と商業の発展


主要農作物から得られた収入

 このグラフは明治45年の『神奈川県統計書』から、中郡(当時秦野地域が含まれていたエリア)のデータを抜粋して作成しました。

 収入の総額だけを見ると米がトップですが、一反あたりの収穫から得られる収入額を見ると、他の作物に比べ葉煙草が群を抜いて高い現金収入をもたらしていたことが読み取れます。

注:米のデータについては、明治45年のデータが得られなかったため、明治40年~44年の平均値を元に算出しています。

主要農作物から得られた収入


日本全国商工人名録に見る秦野の商業

 明治31年の秦野町は、戸数1,292戸、人口6,680人でした。

 納入営業税額10円以上の主な商工業者が記載されている明治32年刊行の「日本全国商工人名録」をみると、秦野町の商工業者81戸のうち煙草製造業が39戸、煙草商が13戸となっており、煙草関係業者が町の主要商工業者の2月3日を占めており、当時の秦野町の商業の中心が煙草であったということが分かります。

 明治27年の記録では煙草製造場の経済的に不安定だったと述べましたが、この4年の間に煙草製造者の努力により経営発展がなされたのではないかと考えます。

参考:明治35年、10円以上の直接国税を納める人は、当時の日本の人口の2.2%でした。

日本全国商工人名録に見る秦野の商業  

軽便鉄道車両
軽便鉄道車両

金融機関の設立

 明治14年、秦野地方で初めての組織的な金融機関_「共伸社」が設立されました。同社は銀行類似会社でしたが、平塚の私立銀行である江陽銀行が明治15年4月に、日本銀行が明治15年10月に設立されたことと比べると、農村としては金融機関の設立が早かったといえます。

 これは、煙草などの地場産業の発展により、貯蓄はもとより、煙草耕作農家の肥料購入の貸付などに資金需要の見込みがあったからだと推測されます。

秦野地方に銀行という名称が現れるのは相模銀行と秦野銀行の設立です。相模銀行は、明治23年の銀行条例により銀行類似事業ができなくなったことによる共伸社からの転換と考えられ、秦野銀行は明治26年に資本金2万円で開業されたものです。

 その後、昭和16年の政府による一県一行方針の推進及び金融統制の強化から、両行とも横浜興信銀行(現横浜銀行)に営業を譲渡しました。

上水道の整備

 秦野町(現在の本町地区)の上水道(曽屋水道)は、県内において横浜水道に次いで明治23年に、陶管を使用した近代水道として完成しました。

 本町地区では、明治12年にコレラが流行して以来度々悪疫に苦しみました。この地域は、地下水が豊富な地形にもかかわらず井戸を掘っても良い水がでませんでした。そこで湧水を水路で流し生活用水としていましたが、上流で使用した水を水路に流し、その水を下流で使用するという不衛生な環境でした。

 こうした中、横浜での水道の建設が大きな刺激になり、秦野町の有力者37名により水道施設建設の動きが起こりました。土木技師の派遣など技術的な面は県の援助を受けましたが、資金や工事は全て住民が負担しました。陶管は鉄管よりは安価でしたが、工事の経費負担は大きいものでした。当時、葉煙草の生産、刻み煙草の製造が盛んで、町全体が経済的に潤っており、工事費用を負担することが可能であったと考えることができます。

軽便鉄道の設立

 明治37年湘南馬車鉄道株式会社が設立され、秦野~二宮間の運行が開始されました。内務大臣から特許を得て営業したもので、平塚~厚木、平塚~秦野も設置の候補になりましたが、秦野は煙草の栽培や製造が盛んで、輪作の落花生などの生産量も多く、輸送力の向上が望まれていたこと、秦野~二宮間の距離が短く建設費が安価で済むなどの理由から選ばれました。

 その後、動力を馬から蒸気機関へ変更するため、新たに機関車両を購入し、軌道の改造などの工事を行って、社名も軽便鉄道株式会社に改称しましたが、赤字が続き、大正7年に運行休止になりました。

 そのため、専売局の煙草類の輸送に携わっていた内国通運株式会社の社員が軽便鉄道株式会社から営業の譲渡を受け、湘南軌道株式会社を設立しました。台町にあった秦野駅を専売支局前まで延長して運行を続けましたが、小田急線の開通やバスなどの他の輸送機関の発達が打撃となり昭和12年に廃止されました。

電気の普及

 明治42年に設立された秦野電気合資会社が、翌年小田原電気鉄道株式会社(現箱根登山鉄道株式会社)から電力の提供を受け、秦野町と南秦野村(現在の南地区)の一部に電気の供給を開始しました。人口1万人を超えたばかりの農村では早い導入でした。これは煙草の専売制施行後、秦野の専売局の関係者が、福島県三春の煙草製造所を訪れ、電力の重要性を認識したことが導入のきっかけになったとも言われています。

 県統計によると大正元年度の配電戸数は378戸で地域全体の約16パーセントに過ぎません。電気の供給料金は電動機1ヶ月10円、電灯1ヶ月90銭(当時米10キロが約1円)とかなり高額であり、町の中心地や矢倉沢往還沿いの商店など、一部の家だけに電灯が点ったのでしょう。

 大正5年に経営が民間から町営に変わると電気料金も安くなり、徐々に一般家庭に広がっていきました。

安本コレクションコーナー

 秦野市文化財保護委員会委員の安本利正氏は、秦野の煙草耕作の歴史や日本国内外の煙草に関わる多くの資料を収集されました。

 この度、国内の煙草パッケージ約2,000点、国外の煙草パッケージ約1,500点、ポスター、絵葉書などの煙草資料約200点、煙草盆、煙管等の喫煙具資_料約60点、煙草に関する書籍約130冊と多くの煙草に関する資料の寄贈を受けました。

スペースの都合上全てを展示することはできませんでしたが、当日はその一部を会場でご紹介いたしました。

煙草盆
煙草盆

携帯用煙草入れ・刻み煙草
携帯用煙草入れ・刻み煙草

観光煙草パッケージ
観光煙草パッケージ

当日の会場風景1 当日の会場風景2
当日の会場風景

当日の会場風景3

おわりに

今回の資料展では、秦野の産業と煙草のかかわりを取り上げました。
県の統計資料を参考にしましたが、集計範囲の変更があったり、未集計の年があったりと苦労しました。

この展示を機に、秦野の産業の歴史に興味をもっていただければ幸いです。
また、第60回たばこ祭り実行委員会発行のパンフレットには、「たばこ耕作の軌跡」がとても分かりやすくまとめられています。ぜひご参照ください。

最後になりましたが、多くの資料を寄贈くださいました安本氏に深く感謝の意を表します。本日はご来場いただき誠にありがとうございました。

参考文献

  • 神奈川県知事官房編『神奈川県統計書』1884-1912
  • 出雲大社相模分祠分祠長第4代草山貞胤著『草山貞胤 翁』1991
  • 社団法人秦野青年会議所編『ふるさと見つけた 軽便鉄道-秦野の軽便鉄道小史-』1983
  • 石塚利雄著『秦野地方とその産業の推移について』1968 中栄信用金庫職員会図書部
  • 鈴木得三「たばこ耕作の軌跡」『第60回記念開催たばこ祭り』2007
  • 秦野市教育研究所編『秦野の近代遺産』1998
  • 秦野市教育研究所編『秦野の近代交通』2000
  • 秦野市水道局編『秦野水道百年史』1990
  • 秦野市編『秦野市史 別巻 たばこ編』1984
  • 秦野市編『秦野市史 通史3 近代』1992
  • 古賀匡「煙草専売以降の秦野市の人口と工業」『秦野市史研究第23号』2004
  • 古島敏雄「秦野地方農業の変遷」『秦野市史研究第29号』1989
  • 石塚利雄「秦野の幕末期にみる金融と明治から現代にいたる金融機関」『秦野市史研究第4号』1984
  • 石塚利雄「秦野たばこの回顧」『秦野市史研究第8号』1988

協力

安本利正 石原幸宏 山口淸 秦野郷土文化会(順不同 敬称略)

主催

秦野市 秦野市教育委員会

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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