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ふるさと探訪

問い合わせ番号:10010-0000-4156 更新日:2012年2月15日

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秦野葉たばこ

畑 換金作物として秦野を支えてきた葉たばこ

おのが寝る 部屋の上にも 煙草の葉
青青とつり 安寝すらしも

南矢名の農家に生まれた前田夕暮の歌である。当時、葉たばこの乾燥に木枯らしという方法があった。これは、青いたばこの茎を、葉をつけたまま畑から刈り取って来て梁(はり)に吊るして枯らす方法。屋根の下一面に青いたばこの木を逆さに吊るした光景を夕暮は「たばこ畑をさながら持って来ておいたようである」と散文集「朝、青く描く」で述懐する。秦野のどこにでもあった光景である。

秦野は古くからたばこの産地として知られ秦野と言えばたばこ、たばこと言えば秦野の名が浮かぶほど秦野はたばことともに歩んできた。

これといった産業のなかった秦野もことたばこに関しては数少ない先進地で共進会、博覧会などで入賞する人も多く日本各地から勉強にやって来たり指導者を派遣したりするなど取り引き、加工だけでなく技術の中心地でもあった。

「波多野たばこ」は江戸時代の初期に肥前(佐賀県)から修験者が種子を持ち帰ったことに始まるといわれるが、この話は全国の5、6ヵ所で言い伝えられる“弘法の伝説”のようなものらしい。しかし明暦(1650年代)のころには商品になっている。

宝永4年(1707年)11月23日富士山が噴火した。一瞬にして山野は荒廃した。作物の栽培は不可能に近かった。不運な天災であったがこういう土地にたばこが適した。

荒廃した農村の救済にたばこが奨励された。その後、秦野葉が佳品であると記録に表れるのが噴火後130年後の「新編相模国風土記稿」である。

以来、鹿児島、水戸地方とともに銘葉産地となり名声は天下に知られるようになった。

品質では国府(鹿児島)の葉がよかった。しかし、秦野葉は味が軽かった。吉原の遊女が一日中吸っていてものどを痛めないという軽さであった。国府葉に秦野葉が加えられ口当たりが良くなった。

今は紙巻きたばこが主流であるが、かつての刻みたばこの多くが秦野で作られた。「さつき」「あやめ」「はぎ」「もみじ」「白梅」「福寿草」などお年寄りになじみ深い刻みたばこは明治の始めまで職人が包丁片手にたばこ葉を丸めて刻んでいた。

この古来の銘葉、秦野葉も時代の流れと需要の変化から昭和に入りこの地方に導入されたシガレット用の黄色種に主役を譲って減少、昭和49年、長い歴史の幕を閉じた。

黄色種の普及で戦後再び活況を呈したこのたばこも昭和30年に入ると工業化、都市化の大きなうねりをかぶって衰退、高度経済成長は古いこのたばこの産地に壊滅的変貌をもたらした。そして昭和59年その歴史の火が消えた。

だが、恒例の「たばこ祭」は毎年華やかに行われている。今日の秦野があるのはたばこのおかげとたばこに感謝を捧げ、たばこ耕作者を慰安するため昭和23年に始められたこの祭、毎年30万人近くの見物客が出て県内を代表する行事の一つに数えられている。

近代水道として我が国三番めの敷設

日本最初の陶管水道敷設

「どかんの水は夏は冷たく、冬は温かい」という古老の話は今でも耳にする。

このどかんとは陶管水道のことで陶管、つまり土管からきている。

陶管による改良水道として全国に誇った秦野町水道は大正12年の関東大震災で大破し、陶管はすべて消え去っている。それでも老人の会話の中にどかんが登場するのはどかんが水道の代名詞として使われていたこと、秦野の町の水道の歴史の古さ、良さを示すものなのだろう。

近代の改良水道の先駆をなしたのは明治18年起工の横浜市だった。

横浜に遅れること3年、明治21年に水道工事を始めたのが北海道の函館市と曽屋村(現在の本町地区)である。日本で3番めの水道、陶管水道としては全国初の敷設である。

我が国の水道事業がようやく、その夜明けを迎えようとした草創時代、山間盆地の一小村が他都市と比較すれば簡易で小規模のものであったにしろ、いち早く近代の改良水道に踏み切ったのは次のような理由からだった。

涌水群として“名水”のお墨つきがついたように秦野には良い水がわき出るところが多い。ところが曽屋村は地下水が深く当時の技術では井戸を掘ることは極めて困難だった。

このため村人は、曽屋神社下の地下水を村の通りに沿った用水路に導いた。その用水路は飲み水としてだけでなく物を洗うためにも使われた。泥も砂もほこりも混じり込んだ。さらにたばこで発展した村は戸数が増えた。水の汚れは激しくなった。

そして明治12年、コレラが流行、いちどに25人もの生命を奪った。飲料水の不良が原因だった。陶管水道は当時の人たちが再び、この惨事を繰り返さないよう懸命に研究し、造りあげたものだ。しかし、陶管は割れやすい。大震災で壊滅し陶管水道時代は終止符を打った。

その翌年、秦野の水道は鉄管水道として整備拡充し再出発したのである。

今でも秦野の水はひと味違うとよく言われる。秦野の自然が作った味なのだろう。

軽便鉄道

室川を渡る軽便鉄道
 

命徳寺の山門近くに高さ2メートルほどの石の壁がある。この上を大山参りの人々や葉たばこ、落花生、秦野木綿を乗せた軽便鉄道が往き来した。初めのうちは今の正宗運送(本町3)の所に秦野駅があった。それが大正12年に主な貨物である葉たばこを運びやすくするために今の秦野電報電話局まで線路を延長した。

こうして秦野駅を出発したこの鉄道は、正宗運送前、命徳寺前と町の中を走った。時速13キロ二宮まで約1時間の行程だった。

昭和2年から7年まで機関士をしていた横溝さん(西大竹)は、「煙突から出る火の粉がわらぶき屋根に落ちてよく火事になりました。脱線事故もありました。でもスピードがなかったからけがはしませんでした」と当時の状況を話す。まるで「機関車ヤエモン」のお話の世界だ。

大正12年、馬車鉄道に変わって秦野と二宮を結ぶ交通機関となったこの軽便鉄道、関東大震災による損害、乗り合いバスや小田急線の開通で利用客が減り、昭和12年に姿を消した。軽便鉄道の名残りをとどめるのは命徳寺前の石の壁だけになってしまった。

醍醐道

本町地区には大道通り、曽屋通り、乳牛通りなど名前のついた道が多い。

そんな道の1つに通称、醍醐(だいご)道というのがある。本町小学校と市役所の間を東北に通って乳牛通りに抜ける細い道だが、ここは奈良・平安時代の古道だったといわれる道。

小総(おぶさ=現在の国府津あたり)から余綾(よろぎ)の山を越えてやって来た古代の旅人は次の箕輪(鶴巻温泉付近)に向かう途中、この醍醐道でひと休み。古老がこの辺りを養老畑と呼んでいたというように醍醐を味わわせた社会福祉事業関係の建物もあったのだろうか。

醍醐とは牛乳を精製して造った今のクリームのようなもの。故梅沢英三氏はその著「秦野地名考」で乳牛(ちゅうし)は牛乳を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は曽つまり牛乳を煮つめて造る食品、今のチーズのような物を生産する家のあるところと解釈できないかという。

狭い道を車がわがもの顔に入って来た。ラジオをボリュームがあげられた車内からポイとジュースの空き缶が捨てられた。秦野音頭にも歌われるこの道、今はその昔の面影をしのぶことすら困難だ。

天神さん

受験期を前にたくさんの人々でにぎわう天神さん

天神さんは上大槻にある。小高い山の北にあるため昼でも暗く、ふだんは人の姿もない。村の鎮守であった。でも、今はひっそりとし、まるで樹林の中でひっそりと眠っているようだ。

天神さんの名で親しまれているこの神社は菅原神社の名のとおり菅原道真を祭ったもの、天満宮である。社宝として長さ2尺5分(約68センチ)幅1尺2寸(約36センチ)の道真自筆と言われる画像が伝わっている。

周辺に落花生や里芋の畑が広がる。寛永(江戸時代初期)のころこの辺りで“他に勝れて佳品”(寛永譜)の大麦が作られていた。

毎年、1月25日には例祭が行われる。べっこうあめやおこしなどを売る露天が参道に立ち並び、この日ばかりは人があふれる。

「頭がよくなる」「字がうまくなる」ということで人気がある天神さん。「裸になって頭に鉢巻きをし、あの境内まで駈けて行ったものだ」という話は今も聞く。霜柱の立つ道を白い息を吐きながら「ろっこんしょうじょう」と唱えながら走ったという。

いつのことからかそんな習わしはなくなり、代わって母親に連れられた受験生が目立つようになった。

例祭のころ参道にりんとした寒さの中、梅が咲き始める。

白笹稲荷

白笹稲荷

大秦野駅から歩いて約30分、今泉にある南小学校の西側に大きな赤い鳥居がある。その鳥居をくぐると目の前に広がる景色が一変する。笹がそよぎ、せせらぎが耳に快い。農民たちが五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈って宇迦之御魂穣(うかのみたまのみこと)を主神とした白笹稲荷である。稲荷神社の例でここにも狐(きつね)が社の前に鎮座している。この狐、春の耕作の始めに山を下って田神(たのかみ)として迎えられる食物神の神使といわれていた。狐が食肉動物であり、穀物の害敵であるねずみを食するからだろう。この神社にも2つの小さく薄暗いほこらに無数の陶製の狐が置かれている。社には狐が好きだと言われる油揚が供えられていた。

毎年2月の初午(はつうま)祭。この日は秦野だけでなく東京や伊豆方面から2万人以上の参拝者が訪れ、参道わきの露店はいっぱいの人だかりになる。最近は交通安全や入試合格の祈願をする人も多い。「高校に無事合格ができますように」と書いた絵馬があった。

この初午祭が終わると春を迎える農家の人たちの作業も忙しくなる。

郷愁の盆地道 大山参り秦野道

蓑毛から大山への道イラスト

「山へ登るてえのはたいへんですな。以前はそうじゃあない。えーまず富士山とか大山とか遊び半分のお参り、六根清浄と言って自分の心を清めようてんで景気をつけてゾロゾロと…」

ご存じ、「お毛が(けが)がなかった」の落ちで終わる落語「大山参り」。江戸の長屋衆たちの年に1度の団体旅行が生んだ珍騒動物語である。大山参りは地元、秦野でも盛んだった。特にある年代以上の人が体験した盆山への郷愁は強いものがある。

江戸で人気があった大山参り、地元でも盛んだったようだ。江戸とは違って農村社会では雨乞いの神として認知されていたからだろう。

それでも近所の気のあった人たちの今でいう慰安旅行であることに変わりはない。

「酒を担いで」「団子を持って」大山へ登ったのである。犬に団子をやると御利益があったとか。

いつのころからかこんな風習はなくなった。遊びが多くなったせいなのか。

「40代以上の人はみんな行ったんじゃあないの。夜、蓑毛から登って御来光を拝んで帰ってくるんだよ。懐かしいね」盆地に郷愁を覚える人は多い。

当時の道を行く

夏休みのせいか大秦野駅前から乗ったヤビツ峠行きのバスは若い登山者で満員、先生に引率されたグループの中には歌を口ずさむ人もいて車内は騒然としていた。蓑毛で降りて柏木林道を歩き始めたのは2人、ほかの人たちはバスでヤビツ峠まで行くらしい。

「蓑毛は“水のグエ”つまり水の崖(がけ)の多いところから来た地名、蓑毛はそのあて字」という話を聞いたことがある。なるほど金目川の源流は水が豊富だ。岩にあたりほとばしる水は見ていて気持ちが良い。

10分ほど川に沿って登ると古い常夜燈があり、その横の傾いた道標にやっと読める字で「大山、2時間20分」とあった。いよいよ盆山の道である。

ひぐらしの鳴く細い道を行く。沢を渡り、苦労をして登り詰めた所がなんと車の通る道。「昔は幾度も登った道、間違えっこない」と教えられた道なのに…。しかたなくその林道を行くことにした。さっきからうぐいすが鳴き続けている。

しばらく行くと左手に道標があった。林道と分かれて赤土の坂道を行く。歩く人がいないのか道に背の高い草が覆いかぶさっている。山ゆりは目立ちたがり屋なのだろうか。わざわざ山道に顔を出している。しかし、人っ子1人いない山の中のせいかなぜかその華やかさにはホッとさせられる。採らなければ良いのだが…。

上り一方の道、きつい。しかし、危険ではない。やっと人に会った。6年生ぐらいの男の子とその父親らしい。男の子がこけに足を滑らせたらしい。ひざ子憎を擦りむいていた。父親の励ましの言葉が奮っていた。「そんなの男の勲章だ」

今は町田に住んでいるこの合田さん、小さいころおじさんに連れられて登った盆山が懐かしく夏休を利用してやって来たと言う。

ホタルブクロが今は盛りと咲き競う。

また林道に出てしまった。道標にしたがう。ひのき林の上り道、思わずヨイショっという声が出る。

どくだみの花の群落があった。純白で清楚(そ)である。きれいで実にかわいい。この花が嫌われているのは名前のせいなのか。

どのくらい歩いたろうか。100回登山の記念碑にぶつかった。大正5年に静岡の人たちが建てたとある。右に行くと下社、左の石段を登る。

ひのきの林を抜けると明るくなった。腰を下ろして休むのに良さそうな所。道端にあるお地蔵さんにカメラを向けて気がついた。

「おや、草の中にまだあるぞ」

かわいそうに草の中に小さなお地蔵さんが五体隠れていた。

草を刈っているうちに合田さん親子が追い着いた。草刈りを手伝ってくれた男の子、「かさ地蔵のお話のように何か良いことがあれば」

霧で何も見えないが尾根に出たのか強い風が吹きつける。風道か、杉の大木が数本倒れ、異様な光景になっている。

平らになった所に、「これより女人禁制」とあった、そういえば落語の大山参りは男ばかりだった。今はもちろんそんなことはない。

少しくだると下社への道にぶつかった。ここからは迷うこともない。あの大山の木の階段をひたすら登れば良い。

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