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年中行事

問い合わせ番号:10010-0000-4155 登録日:2012年3月15日

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 正月

元旦から三が日は、年男になった人が神様にお供えをします。仕事は女手を借りずにとり行います。

まず、身を清めて若水をくみに行き、そして、火を起こして雑煮を作ります。神棚には、お神酒、雑煮を供え、それがすむと女の人を起こして元旦の雑煮をみんなで食べ祝います。

このようにしている家は、市内でもまだ多く残されているようです。

神のあがり

1月4日を「神のあがり」と呼んで、お供えを朝、神棚からおろします。そして、元旦から最初の卯の日に鏡開きをし、もちを入れておしる粉を作って食べ、神棚に供えます。また、子ども達は「まつひき」といって、家々からお正月の飾り(門松)を道祖神にひき集めます。

七草がゆ

市内各地区には1月7日の朝七草がゆを食べる慣しがあります。七草がゆとは、セリ、ナズナ、ゴギョウ(ハハコグサ)、ホトケノザ(タビラコ)、ハコベ、スズナ(かぶ)、スズシロ(大根)の7種類を入れたおかゆのことです。

6日に七草を取りに行き、その夜神棚の下で七草をまな板にのせ、しゃくしや包丁のみで叩きながら、「七草ナズナ、唐土(中国)の鳥と日本の鳥とわたらぬ先に合わせて、バタバタ、バタクタ」と歌います。

しかし、地区によっては、5日に取りに行き、6日と7日の朝にも叩く所もあります。また、叩く用具もしゃもじ・すりこ木棒などを使い、歌にも少し違いがあります。

七草がゆを食べると魔よけになるとか病気にならないとかいわれています。

 小正月

道祖神祭(だんご焼き)

だんご焼き

市内の道祖神祭りは、1月4日のまつひきから始まり、子ども達にとってとても楽しい行事です。この行事は、地区によっては少しの違いが見られますが、八沢・堀山下・今泉では、昔からのやり方が最もよく受け継がれてきています。

また、だんご作りは、またの名を「ものづくり」といい、この一年に生産しようとするものを団子で作り、神にあげ豊作を祈ったものです。「だんごの木」の中心になる所に大きなサトイモをおき、周りに子イモをたくさん並べてつけます。それに、大きな「おばかり団子」(太子のだんご、ともいう)」を2本のめ竹にさします。おばかり団子は白色ですが、ものづくり団子は赤・白・緑の3色以上で色とりどりで、形は、大判・札・綿の花・サツマイモ・たばこの葉・酒どっくり・牛・豚などさまざまです。作り方は嫁に来た時、お姑さんより教えられ、その腕前は嫁への自慢につながるといわれていました。出来上がった団子は、クヌギ・カシ・コナラなどの木にさし、神棚の下に飾りつけました。

団子焼きの団子を食べると虫歯にならないとか、また、松かざりの火に当たると、風邪をひかないとか、書き初めが天高く上がると字が上手になるとかいわれ、競争する子どももいたそうです。

あずきがゆ

横野では正月15日に「あずきがゆ」が作られます。このあずきがゆには道祖神(さいとばらい)の時の団子が入れられ、また、この汁を爪に付けると爪の病にならないといわれ、付けられたものです。

このような行事は、市内各所に見られました。

あくまっぱらい

「あくまっぱらい」とは、いくつかの地区に伝えられている道祖神祭りの別の呼び名の一種です。

子ども達は日が暮れると大将の所へ集まり、太鼓とおはらいを持ち、お面をかぶって地区の家々を回ります。

まず、太鼓たたきが「てんてこまっちゃん、てこまっちゃん」のリズムでたたくと、お面の子ども達は「あくまっぱれー、あくまっぱれー」と大声で叫び、座敷に上がりこみ家族の者一人ひとりをはらい清め「めいこめ、めいこめ福の神、めいこめ」といいながら、部屋中をおはらいしていきます。

その後、心づくしを渡され、もらった合図があると外にいる太鼓たたきの子が、太鼓のどうを力強く「タッカ、タッカ」と叩き、次の家に行きます。

このようにして頂いた金は、最後の晩みんながそろった前で竹筒に入れてあった金入れを割り、大将がみんなに配ります。

獅子舞

獅子舞

かつて西地区では、青年達が仲秋の名月の晩に獅子頭をかぶって各家々を回り、あくまっぱらいをしていましたが、戦後数年たってと切れてしまいました。

しかし、その後地区の子ども達が中心になって、1月15日に再び行っています。子どもが太鼓を叩き、大人が獅子頭をかぶり、手に鈴と御幣を持ち、各家々に上がり込み座敷をくるくる回り「あくまっぱれー」「福がめいこめ」といいながら獅子舞をします。

横野では、正月17日に青年団が中心になって神楽が奉納されたといわれています。この時使う獅子頭を持って、各家々を回り「めいこめ、めいこめ福の神」と歌ったといいます。さらに、獅子に子どもをかむ真似をしてもらうと風邪をひかないといわれています。今は子ども会によって行われています。

えびす講(農家)

えびすの神様をまつる一連の行事をえびす講と呼び、農家の人が行っていたえびす講と商人のえびす講とがあります。

農家の人のえびす講は、1月20日前後に行われていましたが、まつる方法は、その地域によってずいぶん違いがあったそうです。

えびす様は、もともと漁民の神という考え方が強かったのですが、16世紀頃から、商売繁盛の神として信仰されるように変わっていきました。

こうしたことから、農家の繁盛という意味合いも含め、1月20日に落花生やまゆなどの農家でとれた作物をえびす講に供えました。

節分

節分は豆まきの行事として知られていますが、かつては「年こし」としての意味が深かったといわれ、節分に「自分の年の数だけ豆を食べて、年をとった」といっていました。

また、どこの家でも豆まきをしましたが、その内容は地区によって違うばかりでなく、家庭によっても異なっていたようです。

さらに、節分には次のようないわれがありました。

「旅立ちする前に7つぶ食べると無事に帰ってくることができるとか、節分の日には、立木に神様がお出にならないので、家のまわりに植えてある木を自由に切っても罰が当たらない日である。」とかいわれていました。地区によっては今でも集団で道に出ている枝を切って回ったりしています。

初午

初午

初午祭りは、2月になって最初の午の日に、お稲荷さんのお祭りと合わせて行われますが、昔は新年になって初めての午の日であったといわれています。初午から12日後の午の日には、同じように二の午が行われます。市内の稲荷神社の中で最も賑いを見せるのは、今泉の白笹稲荷神社と曲松の国栄稲荷神社です。

正月の飾りは、1月15日(小正月)頃までに、どこの家でもはずしますが、初午の日までとっておき、初午の早朝燃やしたりする家もあります。

また、年こし(節分)前に午の日が来た年は初午としての行事をする家はなく、逆に、三の午のある年は「火早い」といって、火事を恐れたといいます。

 春 

彼岸

春分の日を中心とした一週間を春の彼岸といい、祖先の霊を敬います。ふつう、彼岸前にお墓を掃除し、中日にお参りに行きます。

また、「入りぼたもち、明け団子、中の中日あずき飯」といって、彼岸入りにぼたもち、中日はあずき飯、明ける日に団子を作って、仏様に供えます。

花見

秦野では、3月3日の桃の節句(ひな祭り)をサクラの花の咲く4月3日・4日に行っていました。

この日は、女の子がお母さんと一緒にいろいろなごちそうを作り、重箱に詰めて、友達の家々をかわるがわる訪れる日でもありました。「おばさん、お花見に来たわ。」と、かわいらしい訪問客で賑いました。

また、男の子にとっても、いつも農作業を手伝っていますが、この日は休みがもらえ、女の子と同じように重箱にごちそうを詰めてもらいます。そして、村の境に日の丸や万国旗などをあげ、他の地域の子ども達と陣地取りの争いをします。おたがいに村の境に陣地をしいて、悪口を言い合い攻めていきます。

このように、花見は子ども達にとって、とても楽しみな日でした。

たこ上げ

たこ上げ

たこ上げはお正月のように思われていますが、秦野では男の子の誕生日と成長を祝って、5月にたこを上げていました。その時のたこは、畳2枚ほどの大きさで、うなる音が大きければ大きいほど自慢だったそうです。この大たこは子どもが上げるのではなく、村の人、若い男の人達総出で上げました。昭和30年(1955)頃までは、市内各所でたこ上げが見られました。

 

ずい虫取り

ずい虫は穂のずい(茎の中心にあるやわらかい部分)の中に入り込んで、稲を枯らしてしまう害虫で、その虫を取り去ることを「ずい虫取り」といいます。

市内では、5月後半から6月にかけて苗代の苗が10センチメートルほどになると、小学校4年生以上の子ども達によってずい虫取りが行われました。ずい虫は葉の裏側にいるので、そっと竹の棒で葉を返してずい虫を探し、取ったずい虫を手に持っているインク瓶に入れました。

しかし、農薬の発達により、ずい虫が姿を消し、この行事はなくなってしまいました。

七夕

七夕の行事は、今でも盛んに行われていますが、7月(新暦)にやる所と8月(旧暦)にやる所の2通りあります。

また、市内の大部分の所では、7日の朝、サトイモの葉の上にたまったつゆを集めて墨をすり、短冊に書く慣しがあります。早朝、子ども達は皿を持ってサトイモ畑に行きます。子ども達の集めてきたつゆで墨をすり、最初に文字をしたためるのは一家の主人です。

七夕が終わると、竹飾りを畑に持っていって立てます。こうすると、「畑に虫が寄ってこない」とか「すずめおどし」になるとかいわれています。

土用

土用は四季それぞれに18日間ありますが、ふつう、夏の土用をさします。この期間には土用の名のつく行事がいろいろありました。

土用というと、今日では「土用のうしの日」にウナギを食べることが一般的ですが、40年位前までは大根・鶴巻の小川でシジミが取れたので、夏ばてにならないようにと味噌汁に入れ、「土用シジミ」といって食べました。

また、どこの農家でももちをつきました。これを「土用もち」といい、食べると夏ばてしないとか伝染病にかからないとかいわれました。

そのほか、「土用ぼし中の梅を食うと腹をこわす」「土用中に収穫した薬草はよく効く」ということもいわれていました。

このように、健康に関係するもののほか、秦野は農業がさかんだったので、農業に関する土用の行事が各地区にありました。

虫送り(下大槻百八炬火)

虫送り(下大槻百八炬火)

下大槻には、神奈川県内でも数少ない「百八炬火」という「虫送り」の行事があります。炬火とは松明のことです。この行事は稲の害虫を追い出し米の豊作を願い、毎年8月14日の夕暮れから行われます。

太鼓ばやしの合図であぜ道に並べられた百八のわら束に、次々と火がつけられます。そして、ちょうちんを先頭に元気のよい掛け声とともに、みこしをかついだ子ども達、太鼓ばやし、大人のみこしと続きます。行列が斉藤実盛(平安時代の武士)のわら人形のある所まで来ると、人形に火をつけます。大人のみこしは、そのわら人形を素足で踏んでいきます。

ここで斉藤実盛が出てくるのは、「田の虫」と実盛という言葉が似ているということからだそうです。実盛のわら人形が煙とともに、悪いものをみんな天に持っていってくれるといわれています。

暗闇の中に炎がたち、夜空に人形が浮かび上がり、とても美しい行事です。

辻(つじ)

つじ

お盆には、仏壇のある家では辻を作ります。竹を組んで作りますが、最近は竹が手に入りにくくなり、箱を使っている家もあります。辻は別名「砂もり」ともいわれ、砂だけをもる家もあります。

家の中には精霊棚を作り、ナスの牛、キュウリの馬が置かれ、ソーメンの手綱などをつけます。これは、精霊(死んだ人の魂)がこの牛でやって来られたとか、買い物にすぐ行けるようにとかいう意味があるそうです。

辻は「自分の家の精霊さんが来るのではなく、帰る所のない精霊さんに休んでもらうためのものである」ともいわれています。

所によっては、子ども達が日が暮れると線香を持ち、各家々の辻にお参りに行きます。

ささら踊り

戸川などには、盆踊りとして踊られている「ささら踊り」があります。この踊りは、江戸時代から明治時代にかけて、盛んに踊られて精霊にお見せしました。

また、「素晴らしい恋に恵まれますように」と若い娘さん達が男の人達の前で歌い、小さな女の子達が踊ったものです。

このささら踊りは、大正の中頃には中止になりましたが、昭和52年(1977)になって、保存会の人達によって再び踊られるようになり、次の世代へと引き継がれています。

昭和52年に秦野市の無形民俗文化財に指定、平成20年には「相模のささら踊り」として県の無形民俗文化財に指定されました。

瓜生野百八松明

瓜生野百八松明

大根地区の瓜生野には、5穀(米・麦・豆・あわ・きび)の豊作と精霊迎えや病気にかからないことを願って行われる「百八松明」があります。

この行事は室町時代から続いていて、毎年8月14日と15日の夜7時過ぎから始まります。権現山で火がつけられた2~3メートルの麦わらの松明をかついだ瓜生野地区の青年や子ども達約50人が、山頂から弘法山の麓の龍法寺をめざして山道を下ります。

龍法寺の門前に着くと松明を振り回します。すると最後の炎が勢いを増して燃え上がり、熱さで手にできなくなった松明が小川に放り投げられると、辺りは一瞬にして暗闇となります。

この行事は、昭和52年(1977)に市の無形民俗文化財に指定されました。

瓜生野盆踊り

毎年8月14日・15日の夜、瓜生野百八松明が繰り広げられている時、弘法山の麓瓜生野では盆踊りが行われています。浴衣にタスキがけ、手拭いを持って踊りの輪を広げます。

この盆踊りは、三重県の「伊勢音頭」とつながりがありますが、瓜生野ではこの地域だけの特徴ある盆踊りに姿を変えて伝えられてきました。

昭和52年(1977)には市の無形民俗文化財に指定され、保存会の人々によって、次の世代へと受け継がれています。

おたきあげ

下大槻では、かつて毎月23日の夜、各家々の入口に火をたいて明かりをつける「23日夜のおたきあげ」という行事を行っていました。

この行事は源氏方についた真田与一にかかわりがあります。

今から約800年前の8月23日の夜、石橋山(小田原市)の戦いの時、大雨の中で真田与一が敵と組み合っている最中に、たんがのどに詰まって声が出なくなってしまいました。その時、家来が助けにかけつけましたが、真っ暗だったため、間違って与一を切ってしまいました。

もし、明かりがあったなら与一は命を落とすことはなかったであろうということから、与一の霊を慰めるとともに、23日の夜おたきあげをすれば一生のどの病気にかからないとのいい伝えから、この行事が行われていました。

 

八溯(はっさく)

八溯とは8月1日のことで、まだ実のついていない、いろいろな作物を御膳に乗せて大神宮さんにお供えする日です。

これは「まだ実がついていないので、どうか嵐がこないで下さい。」と神様にお願いをする行事です。

一般には「おはっさく」といわれ、9月1日(旧暦)に行われています。

十五夜・十三夜

今日では「お月見」という名前で呼ばれていますが、最近ではやらない家が多くなりました。

祝い方は市内各地、あまり差がないようですが、「十五夜の団子」といって、米をうすで引いて大きな団子を作る所と小麦まんじゅうを作る所とがあります。一般的には、十五夜は団子15個、ススキ5本、十三夜は団子13個、ススキは3本です。箸はススキの軸で作ります。御膳の上には、団子以外に、オミナエシ・ガマズミ・ワレモコウなどをそえます。それに秋の農作物のサトイモ・サツマイモ・カキ・ザクロなどを供えますが、どこの家でも大皿に一丁の豆腐を置く慣しがあります。

これは、団子が丸いから四角いものを供えるのがよいということや、白い壁の倉が建つようにと、倉の意味もあります。

また、「お月見は十五夜か十三夜の片方だけを祝って、どちらかを省略してはいけない。」という、いい伝えがあります。このことを「片見月」といい、嫌っています。そのため、今日でも月見をする家は必ず十五夜と十三夜の両方を行っています。 この夜、子ども達は手製の槍を団子つきに行ったという所もあったそうです。

えびす講(商人)

本町の商店のえびす講は、11月20日の朝、えびす様を神棚からおろして床の間の前に御膳を置き、その上にお飾りをします。

中央にえびす様、その左右に丸大根(かぶ)、皿に2匹のタイを置きます。お盆には、店のミカン・カキなどを山盛りにして、蝋燭に火をつけ、「今年1年稼いで下さってありがとうございます。」とお礼をいいます。

また、家にはあずきご飯をたき、あま酒を供えたり、おかずとして、けんちん汁をそえたりします。供え物として神棚にあげたミカンは、買い物に来てくれた人にあげました。

一方、子ども達は朝早く商店を訪れて「えべすこけえな、すうけえな」といい、ミカンをもらって歩いたと伝えられています。

 

川びたり

12月1日の行事で、朝早く起きて川へ行き、川の中でおしりを洗うことで心を引き締め、身を清めたのだそうです。そして、もちをついたり、おはぎを作って、みんなで食べ、正月を迎える準備をしたのです。

この日ついたもちを「川びたりもち」といいますが、今は名前だけが残り、全くなくなっています。

事始め(一つ目小ぞう)

事始め(一つ目小ぞう)

12月8日を事始めといい、この日から1年がスタートするとされていました。また、「一つ目小ぞう」が山からやってくる日だといわれていました。

おお寒む小寒む、山から小ぞうが泣いてきた

何といって泣いてきた

寒いといって泣いてきた

寒きゃあたれ、あたれば熱い 熱きゃひっつあれ

ひっつあれ虫が くっついた(ひっつあれとはさがること)

という童歌があり、この小ぞうが一つ目小ぞうで、子ども達はお尻をつねり合って歌いながら遊んだそうです。

一つ目小ぞうは、目が一つです。こんな話があります。

12月8日の晩になると、丹沢の山おくから、「わりい子はいねえか、病気になる子はいねえか。」といいながら降りてきます。そして、家の表に出しっぱなしになっている下駄にはんこを押し、その子どもの名前を帳面(ノート)に書いていきます。朝方になって、その帳面がいっぱいになり、重くて持って帰ることができなくて、道ばたの道祖神に、「来年の1月15日取りに来るから預かってくれ。」と頼んで山に帰ります。ところが、1月15日に来ると、道祖神に、「きのう、火事が起きて帳面は燃えちゃった。」といわれ、一つ目小ぞうはすごすごと山へ帰っていきました。この1月14日の火事が、団子焼き(どんど焼き)とつながりがあるといわれています。

また、一つ目小ぞうが来るのを恐れて、家々では竹竿の先に目かごを乗せて玄関口に立てます。小ぞうは、自分の目は一つしかないのに、目かごはたくさんの目があるので、びっくりして山奥へ逃げ帰ってしまうのだそうです。

すすはらい

12月の13日から年末にかけて行われる大掃除のことです。正月を迎えるにあたって、家の中をきれいにし、新しい年にしようと行われています。

山から竹を2本(数は家によって違います)持って来て、それで、すすをはらいます。使った竹は道祖神に納めて、1月14日の団子焼きの時に一緒に燃やします。

冬至

12月20日頃に行われる行事で、この日は昼間が1年のうちで一番短く夜が長い日です。この日を過ぎると、春に向けて少しずつ日が長くなっていきます。

「冬至にカボチャを食べると中気(病気の名前)にならない。」といわれ、カボチャを煮て食べたり、ゆず湯に入ったりして、体を温めます。

火の番

今は、ほとんどなくなっていますが、昭和30年代頃までは、市内各地区の人達が12月の始めから終わり頃まで火の番を行っていました。

2人1組みになって、1晩2~3回、地域内を「火の用心」「火の用心」といい、「チャキ、チャキ」とひょうし木を叩きながら、各家々を回りました。

もちつき

正月の準備のうちでもちつきは、最も大きな行事の一つでした。何日に、もちつきをするかは、暦でよい日を選んだり、家によっては、毎年決まっているところもありました。ただ、29日は「苦んちもち」といって、どこの家でもいやがって、つく家はなかったようです。

今は、きねやうすを使ってついているのは、あまり見られなくなりましたが、昭和30年代頃までは、本家を中心に一家総出で行われていました。男の人達が尽きて、女の人達は、米の中の石を拾い(方言で「よなげる」という)米をといだり、もちつきの手合わせをしたりしました。

つく量は、多いところで1軒1俵(60キログラム)でしたが、中には2俵(120キログラム)もついた家があったそうです。
ついたもちは、お供えもちに丸めたり、四角ののしもちにしました。近くのお寺やお宮に届けたりしているところもありました。

暮れの市

歳の市ともいわれ、正月の準備に必要なものが売られていました。昔は本町の十日市、大根の矢名市、西地区の堀の市がありましたが、今は、曲松の市、堀の市、本町の市が残っています。

昔は、年1回、新しい下駄やシャツを買ってもらうのを子ども達はとても楽しみにしていました。また、正月の飾りなどを売るかけ声が威勢よく響いていました。

お札配り

蓑毛では、年の暮れが近づくと組長さんがお礼の注文をとりに来ます。お札のうち、年神様のお札は暮れに八坂神社から取り寄せています。お札を配るのは先導師の役目です。

年神様のお札をはるときは、ダイダイ・ウラジロ・ユズリハと一緒に飾ります。そのほか「大神宮さん」のお札を神棚に置き、「かまどの神様」のお札を台所にもはります。

ミソギッパライ(ミソカパライ)

市内では、多くの地域で「ミソギッパライ」という行事を行っています。

年の暮れに神社から、半紙でできた「人形」(ひとがた)と「ごへい」が届けられます。この人形を体にこすりつけたり、人形に息を吹き掛けたりして、1年間に体についた病気や悪いものを人形に移して、正月を清い体で迎えようというものです。このようにした人形と「ごへい」を、夜遅く川に流したり、道祖神に納めたりします

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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