◯9月1日号2面 広報はだの 平成27年(2015年)9月1日 2 思わず胸キュン♥ たばこ祭のあしあと 1948 (昭和23年) 第1回 耕作者へ「いつもお疲れ様」  大正13年結成の秦野煙草耕作組合(大正15年に県煙草耕作組合連合会に改称)の創立25周年を記念して、いくつかのイベントを開催。その中の一つ「タバコ耕作者の慰労会」が「秦野たばこ祭」になりました。 ◇秦野独自の苗床を完成させた関野作次郎氏の胸像を建立 ◇県煙草誌を刊行 ◇「秦野煙草民謡」を公募。大秦野高校教諭が作詩した「秦野煙草音頭」が採用され、作曲家の中山晋平氏が作曲を手掛ける。審査員を歌人の前田夕暮氏らが務めた ◇タバコ耕作者の慰労会を開催  歌舞伎劇、人形芝居、民謡踊り  などが行われる これが       秦野たばこ祭に 情熱を傾けた耕作のストーリー  「秦野煙草音頭」は、タバコの育成から収穫、製品を味わうところまでを歌にしています。第40回では、歌詞がないサンバ調の「秦野煙草音頭」が作られました。 1950 (昭和25年) 第3回 耕作者と市民が一緒に  演芸大会、葉タバコ品評会、駅伝大会、野球大会、花火大会など、市民を対象にしたイベントも行うようになり、耕作者だけでなく、市民も楽しめる祭りに変わっていきました。 品質を比べた葉タバコ品評会 伝統を踊りでアピール  踊りを披露する「煙草音頭大会」が始まり、観客を魅了。第50回には「たばこ音頭パレード」に。 息の合った踊り 1955 (昭和30年) 秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村が合併して一つの市に 秦野市が誕生 1956 (昭和31年) 第9回 祭りを盛り上げる「火」が登場  弘法大師が修行を積んだとされる弘法山の山頂で、松明に火をともして下山し、竿灯に火を移す「弘法の火祭」と、その竿灯を掲げて市内目抜き通りを行進する「竿灯パレード」を開催。火を扱う2つのイベントは、祭りのにぎわいに花を添え、「秦野たばこ祭」と「火」をつなげるきっかけになりました。 流行にも敏感  第13回の「竿灯パレード」では、当時流行していた「ダッコちゃん」をデザインした竿灯も登場 1957 (昭和32年) 第10回 大人が楽しむイベントを  市を中心とした実行委員会が祭りを運営することに。たばこ吸い当てコンクールや演芸会、義太夫大会など観て楽しめるイベントが増えました。 たばこを吸って銘柄を当てた 1963 (昭和38年) 第16回 「ミスたばこ」が祭りを華やかに  映画女優が「ミスたばこ」になりました。パレードで「ミスたばこ」を一目見ようと、多くの人が足を運びました。第17回から21回までは、「ミスたばこ」に加え、男性俳優が「ミスターたばこ」になり、2人でパレードに。「ミスたばこ」の出演は第49回まででした。 第21回ミス・南美川洋子さんとミスター・成田三樹夫さん タバコって?  原産は南アメリカで、ナス科の一年草。16世紀半ばに日本へ伝わったといわれています。 「秦野煙草は技術で作る」  秦野での葉タバコ耕作は江戸時代初期に始まったといわれています。秦野葉は風味がまろやかで喉を痛めないと評判でしたが、病気に弱く、栽培には労力と肥料などが必要でした。そこで、強い苗を育てる苗床や、葉の乾燥方法、収穫量を増やす密植法が秦野で編み出されました。他の産地に比べて気候には恵まれませんでしたが、耕作者の努力と工夫で、質のよいタバコを大量に生産できるようになり、薩摩(鹿児島県)、水府(茨城県)に並んで日本三大名葉に数えられるまでになりました。  しかし、産業の中心が工業に変わり農業から離れる人が増え、ついに1984(昭和59)年に市内でのタバコ耕作は幕を下ろしました。 高度な技術で葉を乾燥