鎌倉時代
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波多野氏と源氏
治承4年(1180)8月、平治の乱(1159)後、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、相模に入り石橋山で平氏側の大庭景親の軍勢と戦いを交えました。この時、頼朝の挙兵に参加した武士は、伊豆の北条氏、三浦半島の三浦一族と西相模の土肥一族らであり、波多野義常の一族は平氏側につきました。
石橋山合戦に敗れた頼朝は、真鶴岬より海を渡り安房に逃がれ、その後、関東各地の武士3万余を従え鎌倉へ入り、ここを本拠と定めました。この状況の中、義常は頼朝の挙兵に応じず却って暴言を吐いたことで、やがて追討されると察知し、松田郷で自害に至りました。
一方、富士川の戦いの論功行賞では、波多野氏の一族である河村義秀も所領を没収され、大庭景義に身柄を預けられました。
こうしたことから、波多野氏は、鎌倉幕府が開かれた時には、三浦氏などのような有力御家人にはなれませんでした。しかしその後、義常の弟忠綱は秦野の地の相続を許され、2代将軍頼家、3代将軍実朝に仕え、幕府の要職につきました。承久の乱(1221)後は、忠綱の子義重が軍功により越前(福井県)志比庄の地頭職を与えられ、後に曹洞宗の開祖道元を招いて永平寺を開創しました。この越前へ移った波多野氏は代々、出雲守、評定衆を継承することとなり、北条氏の執権政治の要職に伝え続けたため、次の時代へと勢力を保ち続けました。
波多野氏に関する本
- 『歴史浪漫波多野氏物語絵詞』
- 『秦野市史第一巻古代・中世寺社史料』
- 『秦野市史通史1総説・原始・古代・中世』
- 『市史研究第2号』
- 『市史研究第4号』
- 『市史研究第12号』
- 『市史研究第18号』
- 『秦野市文化財調査報告書8秦野の遺跡1東田原中丸遺跡2000-03調査』
- 『秦野市文化財調査報告書9秦野の遺跡2東田原中丸遺跡第三次調査』
実朝御首塚と金剛寺
承久元年(1219)正月27日夜、3代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮の年頭の式に出席した帰りに、石段の所で兄頼家の遺子公暁により暗殺されました。公暁は実朝の首を抱えて逃走し、三浦義村の屋敷にむかいましたが、義村には北条氏より公暁追討が命じられており、そこで討たれました。三浦氏の家臣長尾定景父子とともに三浦義村より公暁を討ち取る命を受けた武常晴は、偶然に、実朝の首を得ることができました。常晴は、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。それが、現在東田原にある実朝の御首塚です。
その後波多野氏は、実朝の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、首塚を飾っていた五輪木塔を石塔に替え、阿弥陀堂に移しました。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。
実朝御首塚に関する本
- 『秦野市史通史1総説・原始・古代・中世』
- 『市史研究16号』
- 『市史研究25号』
- 『市史研究26号』
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