明治時代
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市町村制のはじまり
慶応4年(1868)12月、元号は明治とかわり、新政府は天皇を中心とした中央集権体制の国家をつくるために、さまざまな制度の改革にのりだしました。
明治4年(1871)の廃藩置県により秦野地方は足柄県に属することになりました。その後統廃合により明治9年(1876)に足柄県も神奈川県に吸収され、明治45年(1912)にほぼ今日の神奈川県の区域が確立されました。
廃藩置県と同じ頃、「戸籍法」も発布され、明治6年(1873)には、村の名主を廃止して新しく戸長を置き、村民の戸籍や土地などの仕事を行わせました。明治21年(1888)市制町村制が公布され、明治22年(1889)には秦野町、東秦野村、南秦野村、北秦野村、西秦野村、大根村、上秦野村の1町6村が誕生しました。
教育制度のはじまり
政府は近代的教育制度を整えるために、明治5年(1872)学制を発布し、全国に小学校をつくることになりました。当時設立された学校は寺子屋や私塾を利用したものが多く、曽屋の修身館(本町小学校の前身)や田原学校(東小学校の前身)などは、明治6年に小学校となりました。足柄県は東京、神奈川と並んで第1大学区に属し、さらに、中学区、小学区の学区制がとられました。秦野の学校はほとんど第28中学区にはいり、学校の呼び方も最初は「第1大学区足柄県管内第28中学区第○○○番小学区○○学舎」と呼ばれました。
明治10年(1877)ごろの秦野地方の学校は下記のとおりです。
学校名 |
所在地 |
教場 |
教師 |
生徒 |
||
---|---|---|---|---|---|---|
男 |
女 |
男 |
女 |
|||
堀山学校 |
大住郡堀山下村 |
9 |
4人 |
0人 |
129人 |
28人 |
菩提学校 |
〃 菩提村 |
9 |
3 |
0 |
68 |
13 |
平沢学校 |
〃 平沢村 |
6 |
6 |
0 |
164 |
52 |
渋沢学校 |
〃 渋沢村 |
10 |
7 |
0 |
116 |
46 |
曽屋学校 |
〃 曽屋村 |
10 |
5 |
0 |
185 |
83 |
田原学校 |
〃 田原村 |
9 |
5 |
0 |
108 |
20 |
柳川学校 |
足柄上郡柳川村 |
10 |
5 |
0 |
91 |
19 |
真田学校 |
大住郡真田村 |
10 |
11 |
0 |
208 |
35 |
(明治10年 文部省年報より)
のびゆく産業
1 たばこの製造
秦野では、江戸時代よりたばこ栽培が行われていましたが、明治10年代には全国的に有数の産地になりました。明治20年(1887)ごろから水力たばこきざみ機械が考え出され、それを使った工場が各地にできました。
さらに明治29年(1896)の「葉煙草生産上位14県」によると、神奈川県は全国で6番目の収穫高で、たばこの質も鹿児島、熊本に次ぐ2等級の上質なものでした。
神奈川県内のたばこの大部分は秦野で作られたものでしたから、秦野は全国でも有数の産地であったことがわかります。
やがて政府の統制が強まり、明治31年(1898)には葉煙草専売法が公布され、国がたばこの葉を買い上げることになり、その仕事をする秦野葉煙草専売所が今の入船町につくられました。そののち、たばこの製造も政府の手に握られ、専売所できざみたばこを作るようになりました。
2 秦野木綿
たばこの専売制に対して、秦野でも煙草仲介人たちを中心に反対運動がおこりましたが、きざみたばこを製造していた人たちはその工場で、織物を作るようになりました。
秦野木綿は藍染の色と香り、そして丈夫さに特色があり、よい品として県内はもとより、長野、埼玉、秋田、北海道にも送られ、一部は輸出されました。
交通
秦野で作ったきざみたばこは、馬力車や荷車で横浜や東京方面に運ばれました。明治39年(1906)に湘南馬車鉄道が作られ、秦野~二宮間で営業が開始されました。乗車賃は往復18銭、片道10銭、1区間2銭で、たばこや秦野木綿もこの馬車鉄道を使って二宮まで運ばれ、二宮から東海道本線で東京方面へ運ばれるようになりました。やがて大正2年(1913)には動力が馬から蒸気機関車にかわり軽便鉄道になりました。
また乗合自動車も明治44年に創立されましたが、カーブを曲りきれず畑に落ちるというような事故が相次ぎ、1年で廃業となりました。
曽屋水道
秦野において上水道の敷設は全国でも早く、横浜、函館についで3番目、陶管水道としては全国初のものでした。
これは秦野盆地が井戸を掘るのに適さず地質的に良質の水が得られないことから、自然湧水を生活用水に使用していたためといわれています。
明治12年(1879)にコレラが大流行し、1度に25名もの死者を出したことから、曽屋村の有志が県庁に願い出て水道工事が始まりました。
水源は曽屋神社の地下水を利用し、陶管の総延長は約5キロにも及びました。水道が完成したのは明治23年(1890)のことです。やがて渋沢にも明治33年(1900)に、これと同じように陶管水道ができました。
その後関東大震災によって陶管が破壊され、鉄管に変わっていきました。
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