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室町時代

問い合わせ番号:10010-0000-2274 登録日:2014年4月16日

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 戦国の武将と秦野の支配

応仁の乱(1467)以後、各地に勢力をもつ有力な武将たちが互いに戦いをくり返す戦国時代となりました。室町幕府の権威は地におち、実力により身分の下の者が上の者にとってかわる「下剋上」の世になり、そうした動きの中で、のちに典型的な戦国大名といわれた伊勢新九郎長氏(☆北条早雲)があらわれてきました。明応4年(1495)、伊豆を支配していた早雲は小田原城の大森氏を滅ぼして城を手に入れ、以後、相模に勢力をのばしてきました。早雲はさらに三浦氏を攻め、そのころ秦野在地の武士で、三浦氏の家来であった寺山の武左京亮一族も、たびたび北条氏と戦いました。 

この戦国時代の小田原北条氏を、鎌倉時代の北条氏と区別するため、後北条氏とよんでいます。 

北条氏が相模国を支配すると、その家来が秦野にも配置されました。田原・名古木を中心に足軽大将の大藤氏、曽屋・今泉に桑原氏、北矢名には山角氏らを配しました。また1部の在地の名主たちも、そのまま北条氏の支配組織の中に組みこまれていきました。 その後、北条氏の支配は、甲斐の武田氏、越後の上杉氏と争いながら、関東一円に及び、秀吉に滅ぼされるまで続きました。

 戦乱の中の信仰

早雲を始め北条氏一族は、戦乱の中、敬神崇仏の念が厚く、自ら多くの社寺の改修・建立を行いました。その影響を受け、秦野市内にも当時に由来する社寺が多くあります。

  • ア 浄円寺と和田氏 平沢の和田氏は、北条氏綱に仕えた和田兵庫以後、小田原落城まで北条氏に仕えました。浄円寺は、兵庫の子石見が、大永年間 (1521~27)に建立した寺です。
  • イ 香雲寺と大藤氏 西田原の香雲寺は、曹洞宗の僧宗俊が羽根村に開いた春窓院を、永禄年間(1558~69)に領主大藤武部少輔政信が現在地に移し再興した寺と伝えられています。
  • ウ 三廻部観音院 永禄元年(1558)に金が産出し当地に移されたという観音院には、元亀2年(1571)、僧明亮が、織田信長の比叡山焼打ちに際し、延暦寺東堂にこもり討ち死にしたという話が伝えられています。
  • エ 神社 横野の唐子神社は、その縁起に北条早雲の崇敬を受けたと記されています。また、永禄2年(1559)、下大槻に造営された牛頭天王社は、その棟札に当時の地頭富永弥四郎や、原土佐守重政らの名が記されており、堀山下の八幡宮には、永禄7年(1564)、北条氏の代官小野長門の出した木札が残されています。

この他にも、渋沢若宮神社、羽根住吉神社、尾尻八幡神社などに、当時の記録が残っており、そのことからも、信仰の厚さをうかがうことができます。

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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