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江戸時代

問い合わせ番号:10010-0000-2272 登録日:2014年4月16日

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 秦野地方の支配の移りかわり

天正18年(1590)8月、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし、徳川家康に関東地方を治めさせました。この時、家康の家臣、大久保忠世が小田原城に入り、足柄上、下両郡の村々が領地として与えられました。

秦野地方では渋沢村及び足柄上郡に属していた八沢、菖蒲、柳川、三廻部、栃窪の各村々が小田原藩領となり、その他の大部分は幕府領となりました。 江戸幕府成立後の寛永9年(1632)11月、幕府老中を勤める稲葉正勝が小田原藩主に任ぜられ、その子正則が藩主を勤めた頃になると、秦野地方の村々も、大名、旗本などの領地がふえました。さらに、元禄年間にはいると、多くの村々で大名、旗本の支配がえが行われました。このように江戸時代の村の支配者は一定ではなく、幕藩体制の強化や衰退の時期とも関連し、微妙に変化しました。また、1村を数名で支配するところも多くみられました。

 村の組織

村々を支配していた領主たちは、いずれも遠く離れた土地に住み、村内を直接監視できませんでした。そのために、村には村方三役(名主、組頭、百姓代)がおかれ、これらの人々を通して農民を支配していました。三役は本百姓の中から選ばれましたが、ふつうは名主格、組頭格とよばれる家柄の者が、任命や年番(1、2年ごとに交代すること)あるいは入札(いれふだ選挙)といった方法で選ばれました。天明年間に横野村では名主の後継者争いがおこり、名主反対派が奉行所へ訴え出るなど争いは4年にもわたって行われました。

また、幕府や諸大名、旗本は領内の村々の実情を知るために「村鑑」「明細帳」など目的に応じてさまざまな書類を提出させました。東田原村で元禄12年(1699)につくられた明細帳から、領主と村役人のつながりをみてみましょう。 

  • 名主、杢兵衛、藤丘衛両人が世襲でつとめること
  • 名主給分として米4俵を殿様より両人へ毎年支給すること
  • 名主両人とも持高10石を越えた分だけ諸役の負担を課されること
  • 組頭5人に給分として麦5俵を殿様より毎年支給すること
  • 名主が江戸へ参る時は路銭800文、逗留の内銭100文ずつ殿様より支給されること
  • 御年頭に江戸へ名主1人が参ること、御年玉として柿1束、波多野大根1抱を差上げること

「相州大住郡東田原村差出諸色覚帳」より

 検地と年貢

小田原北条氏滅亡の翌天正19年(1591)いわゆる太閤検地が実施され、家康支配下の関東地方の検地もその一環として行われました。これが基礎となり、村高(村の総収穫高)や年貢高が決められました。秦野では柳川村の検地帳が最も古く、天正19年ごろのものとされています。検地帳には田畑が上、中、下、下下の4段階に分けられ、一筆ごとに面積、所在地、所持者名が書かれました。この所持者は同時に年貢を納める義務を持つ本百姓でした。

 村のくらし

1  農業

検地帳からもわかるように、秦野地方ではどの村でも稲作は限られた地域でしか行われず、ほとんどが畑作でした。畑でのおもな作物は麦、栗、稗、大豆などの雑穀類で、そのほか菜種、そば、たばこ、波多野大根などが名産品として作られていました。

たばこは、「煙草」や「多葉粉」などと書かれ江戸初期より栽培されていましたが、富士山噴火後、土質の変化により一層さかんになってきました。

2  商業

現在の本町四ッ角付近にひらかれた市場は、江戸時代には「十日市場」とよばれ、定期市がひらかれ、にぎわっていました。市場は毎月1と6のつく日にひらかれ、雑穀、農具、肥料などのほかに、薪や麻布、綿布などの売買が行われました。また、この市場は矢倉沢往還の中継地でもあったので、伊勢原や小田原方面との商品流通も盛んに行われました。

3  信仰と社寺への参詣

封建制度の重圧の下で農民の生活はさまざまな制約をうけ、重い税に悩まされてきました。その中で神仏への信仰は一つの心のよりどころというべきものでした。秦野地方でも江戸時代には道祖神や庚申講のような民間信仰や娯楽も兼ねた社寺参詣がさかんに行われるようになってきました。社寺参詣については、秦野近辺では富士詣、大山詣、三峰詣、坂東三十三観音などがあり、人々が通る街道筋が整えられました。

 庚申講(こうしんこう)

庚申にまつわる信仰は、古くは中国から伝えられたものです。 60日に1度まわってくる庚申の夜、人の身体の中にいる三尸(さんし)という虫が、人の寝ている間にひそかに天に昇り、天上の神にその人の罪過を告げるというので、この夜は眠らず、三尸虫に逃げ出す機会を与えないという風習からはじまったといわれています。やがて江戸時代には何軒かの家がまとまって庚申講という集団をつくり、庚申の夜に当番の家に集まり、一晩中眠らず念仏をとなえたり、村のいろいろなできごとを語り合ったりしました。そのあかしとして作られたといわれる庚申塔は、村の入口や交差点などに道祖神や道標と一緒におかれ、信仰や人々の団結強化につながる場として語り継がれてきました。

江戸時代の秦野に関する本

  • 『秦野市史第二巻近世史料1』
  • 『秦野市史第三巻近世史料2』
  • 『秦野市史通史2近世』

秦野の講に関する本

  • 『秦野市民俗調査報告書1丹沢山麓の講集団』

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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