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WEB再現 平成22年度桜土手古墳展示館特別展「発掘された秦野の古墳」

問い合わせ番号:10010-0000-2196 登録日:2020年11月9日

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平成22年10月09日から12月5日まで開催した、平成22年度桜土手古墳展示館特別展「発掘された秦野の古墳」をホームページ上に再現しました。

銀装圭頭大刀1

ごあいさつ

 桜土手古墳展示館は、この11月3日で開館20周年を迎えます。当館ではかつて、「西相模の古墳(平成4年)」、「西湘の横穴墓(平成6年)」といった企画展示を行っていますが、ここしばらくは他の時代をテーマにした特別展を多く開催してきました。

 そこで今年度は、20年を一つの節目として原点に立ちかえるという意味で、特別展「発掘された秦野の古墳」を開催することといたしました。この20年間に秦野市内で発掘された古墳・横穴墓出土の新資料を中心にご紹介いたしますが、特にこの7月に出土した神奈川県指定史跡二子塚古墳出土の銀装圭頭大刀(ぎんそうけいとうたち)は、保存処理前最後の公開となります。また、桜土手古墳群第13号墳出土遺物も専修大学のご協力を得まして、当館での初展示となりました。

 この機会に、秦野の古墳について、あらためて興味・関心を持っていただければ幸いです。
桜土手古墳展示館職員一同

銀装圭頭大刀2(ぎんそうけいとうたち)

銀装圭頭大刀出土状況
出土状況

銀装圭頭大刀3
銀装圭頭大刀

平成22年7月5日、二子塚古墳の二次調査中に石室の中から検出された銀装圭頭大刀は、若干の欠損はあるものの、柄頭から鞘尻までが揃っており、全形のわかる銀装圭頭大刀としては神奈川県内初の例です。鞘口から第一足金具の間、第二足金具から責金具の間を覆う薄い銀板と鞘尻金具には、繊細な唐草風の文様を打ち出しており、工芸的にも優れた逸品であったことがうかがわれます。

銀装や金銅装の装飾大刀は、社会的地位の権威づけを目的として、上層の権力者や集団から贈られる品物の一種で、考古学研究上、社会学の用語を準用して、「威信財(いしんざい)」と呼ばれています。銀などの希少な材料を使い、工芸的にも高い技術が使われているのは、簡単に複製ができないようにするためと考えられています。二子塚古墳の「前方後円墳」という墳形についても、地域支配者という政治的意義をもつと考えられており、この銀装圭頭大刀も、二子塚古墳に葬られた人物に対して大和政権がその権力を認める一方で、自らの支配下に置くために与えられたものと理解してよいと思われます。

はじめに

秦野市域の古墳・横穴墓の分布
秦野市域の古墳・横穴墓の分布

桜土手古墳群は35基の円墳からなり、県内でも残りのよい古墳群として注目されてきましたが、秦野市内には「塚」という文字が付く小字名が多く見られ、かつてはさらに多くの古墳が市内に存在していたものと思われます。また、古墳の横穴式石室のかわりに、急傾斜地に横穴を掘って墓穴とする横穴墓も数多く存在しています。

秦野市内に分布する古墳は、唯一の前方後円墳である二子塚古墳を除き、すべてが円墳で、おおむね6世紀後半から8世紀初頭の古墳時代の終わりごろに造られたもので、有力な家長とその家族の墓所であると考えられます。
古い時期の古墳が市内に見られないことから、古代における秦野の開発は周辺地域よりやや遅れて、6世紀以降に着手されたものとみてよいでしょう。

横穴式石室と横穴墓の比較
横穴式石室と横穴墓の比較

桜塚古墳(奥)・金堀塚古墳出土遺物(手前)
桜塚古墳(奥)・金堀塚古墳出土遺物(手前)

不弓引横穴墓群出土遺物
不弓引横穴墓群出土遺物

鶴巻天神脇横穴墓群出土遺物
鶴巻天神脇横穴墓群出土遺物

岩井戸横穴墓群出土遺物
岩井戸横穴墓群出土遺物

大根地区

二子塚古墳(ふたごづかこふん)

二子塚古墳

 標高75メートル付近の下大槻字二タ子(ふたご)に所在する横穴式石室を有する前方後円墳です。金目川左岸の台地上に立地し、周辺には下大槻欠上遺跡、広畑古墳群、岩井戸・欠ノ上横穴墓群が所在します。

 墳丘は全長46メートル、後円部の東西方向33メートル、南北26メートル、前方部の幅25メートルになります。横穴式石室は後円部にあり、南東方向に入口が設けられています。石室の奥壁部分が根こそぎ撤去されているため詳細はわかりませんが、玄室の幅は1.5メートル、前庭部から奥壁までが9メートル、石室の平面形は片袖式と推定しています。床には礫が敷いてありましたが、追葬は確認できませんでした。なお、前庭部の状況はわかりません。

 出土遺物は全形の銀装圭頭大刀、象嵌(ぞうがん)を持つ鞘尻金具、鉄鏃、耳環、玉類、須恵器等があります。銀装圭頭大刀は玄室の北東の側壁の際、礫床の上で出土しています。崩れた壁の石の下敷きになっていたため、5つに分割されていました。また、象嵌を持つ鞘尻金具は玄室中央付近の礫床の上にあり、近くでは耳環が発見されています。

二子塚古墳出土遺物

二子塚古墳の石室

鞘尻金具

Dトレンチの玄室礫床の面から出土した錆の塊は、国立歴史民俗博物館でX線の調査を行ったところ、直刀の鞘尻金具であることが判明しました。金具には、魚のうろこのような象嵌が施されています。二子塚古墳には、銀装圭頭大刀のほかにも、装飾の施された刀が副葬されていたことがわかります。

鞘尻金具X線写真と模式図
 X線写真 模式図

下大槻欠上遺跡(しもおおつきかけうえいせき)

下大槻欠上遺跡

 標高60メートル付近の下大槻字欠ノ上に所在する横穴式石室を有する円墳です。金目川左岸の河岸段丘上に立地し、周辺には二子塚古墳、広畑古墳群、岩井戸・欠ノ上横穴墓群が所在します。

 墳丘の直径は17.5メートル、周溝の幅が2.6メートル、周溝を含む古墳の直径は22.5メートルで、葺石の一部が残っていました。無袖式の横穴式石室は南南西に入口が設けられています。前庭部の長さは3.9メートル、羨門から奥壁までの長さ5.3メートル、奥壁の幅1.3メートルになります。

 前庭部は周溝に向かって撥のように広がっており、両側に最大4段の石積みが残っていました。石室は羨門から奥壁に向かって緩やかに広がっており、側壁には最大5段の石積みが残っていましたが、両壁の一部が大きく崩されていました。奥壁は幅40センチから50センチの3個の石を据え、その上に小ぶりの石を積んでいます。床には礫が敷いてありましたが、追葬は確認できませんでした。

 出土遺物は、耳環、玉類のほか土師器の坏が検出されたにとどまりました。

下大槻欠上遺跡出土遺物

下大槻欠上遺跡2

南地区

尾尻沢山横穴墓群(おじりさわのやまよこあなぼぐん)

尾尻沢山横穴墓群

 標高約100メートルから103メートルの八幡山と呼ばれる小丘陵の北側斜面に所在します。この丘陵上には、古墳時代後期の集落である尾尻八幡山遺跡があります。

 これまで3度の発掘調査がおこなわれ、合計11基の横穴墓が発見されています。各横穴墓は同一の等高線上に位置せず、数メートルの比高差をもち築かれています。平面形は羨道と玄室の区別が明瞭なものと不明瞭なものとがあります。平成18年の調査で確認された第2号横穴墓は、羨門から奥壁まで全長3.86メートルを測り、平面形は羨道と玄室の区別が不明瞭であるものの、床面の段差や川原石の配列によりその区別を意識しています。

 出土遺物には、須恵器のフラスコ形瓶、坏蓋、提瓶や直刀、鍔、刀子、鉄鏃といった鉄製品の他に耳環、ガラス玉類の装身具があります。

尾尻沢山横穴墓群出土遺物1

尾尻沢山横穴墓群2.

平沢鈴張遺跡(ひらさわすずはりいせき)

平沢鈴張遺跡1

 標高130メートル付近の鈴張町に所在する横穴式石室を有する円墳です。水無川右岸の台地上に立地し、周辺には、清正公塚古墳のほか、消滅した古墳もあるようです。

 墳丘の直径は16.2メートル、周溝の幅が推定3.6メートル、周溝を含む古墳の直径は23.4メートルになります。葺石と墳丘内石積みの一部が残っていましたので、二段築成の墳丘であったと考えることができます。無袖式の横穴式石室は南東に入口が設けられています。前庭部の長さは推定3.2メートル、羨門から奥壁までの長さ4.9メートル、奥壁の幅1.4メートルになります。

 前庭部は周溝に向かってハ字状に広がっており、両側には最大7段の石積みが残っていました。羨道と玄室の区別は側壁の石積みにより区別ができます。側壁には最大5段の石積みが残っていましたが、東壁の一部が大きく崩れていました。奥壁は幅1.45メートル、高さ1.58メートル、最大厚0.5メートルの1個の石を据えています。床には礫が敷いてありましたが、追葬は確認できませんでした。

 出土遺物はガラス小玉24個にとどまり、盗掘を受けているようです。

平沢鈴張遺跡出土遺物2

平沢鈴張遺跡2

東地区

落合背戸横穴墓群(おちあいせどよこあなぼぐん)

落合背戸横穴墓群1

落合背戸横穴墓群2

 大字落合の延沢川によって浸食された急傾斜地に存在した横穴墓群で、護岸整備工事にともなって、平成3年に11基が調査されています。

 羨門部に横穴式石室を思わせる石積施設を持つものと、石積施設を持たない小型の玄室のものに大きく大別でき、掘削の切り合いから、後者のほうが新しいものであることがわかりました。前者に見られる石積施設は、市内では岩井戸横穴墓群でも確認されており、伊勢原市や厚木市、座間市のほか、県外では東京都の多摩地方にまで類例が見られます。

 墓道や前庭部から土師器・須恵器が出土していますが、玄室内部の遺物は乏しく、刀子1点と鉄製品の断欠が数点出土したにとどまっています。

金目原古墳群第1号墳(かなめはらこふんぐんだい1ごうふん)

金目原古墳群第1号墳

 標高170メートル付近の寺山字金目原に所在する横穴式石室を有する円墳です。金目川左岸の台地上に立地し、5基の古墳から構成されています。付近には道永塚古墳群が所在します。

 墳丘の直径は15.8メートル、周溝の幅が1.5メートルで、周溝を含む古墳の直径は19.4メートルになります。両袖式の横穴式石室は南西に入口が設けられています。前庭部の長さは3.6メートル、羨門から奥壁までの長さ5.5メートル、奥壁の幅1.7メートルになります。

前庭部は周溝に向かって真っ直ぐに伸びており、両側には2から3段の石積みが残っていました。羨門・玄門の幅は1.0メートルで、奥壁に向かって真っ直ぐに延びています。玄室の側壁には最大3段の石積みが残っていましたが、東壁の一部が根石を含めて大きく壊されていました。奥壁は幅1.7メートル、高さ1.0メートル、最大厚0.6メートルの1個の石を据えています。なお、この上にほぼ同じ大きさの石がありました。床面では部分的に礫を確認しましたが、追葬は確認できませんでした。

 出土遺物は、玉類、鉄鏃、刀子、須恵器長頚瓶でした。

金目原古墳群第1号墳出土遺物

金目原古墳群第1号墳2

金目原古墳群第3号墳(かなめはらこふんぐんだい3ごうふん)

金目原古墳群第3号墳

 第1号墳の北東37メートルに位置します。

 墳丘の直径は12.6メートル、周溝の幅が1.7メートルで、周溝を含む古墳の直径は16.0メートルになります。無袖式の横穴式石室は南南西に入口が設けられています。前庭部の長さ2.0メートル、羨門から奥壁までの長さ4.9メートル、奥壁の幅1.0メートルになります。前庭部は周溝に向かって真っ直ぐに伸びていますが、石積みは確認できませんでした。石室は羨道と玄室の区別が明瞭ではなく、羨門から奥壁に向かって真っ直ぐに延びています。石室の側壁には最大5段の石積みが残っていましたが、上部の石積みは地震によるものでしょうか、全体的に東に動いていました。奥壁は幅1.3メートル、高さ0.8メートル、最大厚0.5メートルの1個の石を据えています。なお、この上にひと回り小さい石がありました。床には礫が敷いてありましたが、追葬は確認できませんでした。

 出土遺物は、直刀、耳環、鉄鏃、玉類でした。

金目原古墳群第3号墳出土遺物

金目原古墳群第3号墳2

西地区

桃木原古墳群第1号墳(もものきはらこふんぐんだい1ごうふん)

桃木原古墳群第1号墳

 標高200メートル付近の堀山下字東向ヶ谷戸に所在する横穴式石室を有する円墳です。水無川右岸の台地上に立地し、周辺には桜土手古墳群が所在します。

 墳丘の直径は14.4メートル、周溝の幅が1.5メートルで、周溝を含む古墳の直径は17.4メートルになります。無袖式の横穴式石室は南に入口が設けられています。前庭部の長さ1.9メートル、羨門から奥壁までの長さ5.4メートル、奥壁の幅0.9メートルになります。前庭部は周溝に向かって真っ直ぐに伸びており、両側に2から3段の石積みが残っていました。石室は羨門が0.8メートルと狭いものの1.1メートルの幅で奥壁に向かって真っ直ぐに延びていますが、西側の壁は奥壁の手前0.5メートルのところから折れ曲がり狭くなります。石室側壁は最高で7段の石積みが残っていました。奥壁は幅0.8メートル、高さ0.7メートル、最大厚0.4メートルの1個の石を据えています。床には礫が敷いてあり、数回にわたる追葬が行われています。

 出土遺物は、耳環、鉄鏃、玉類、須恵器の横瓶・短頚壷・坏でした。

桃木原古墳群第1号墳出土遺物

桃木原古墳群第1号墳2

桜土手古墳群第13号墳(さくらどてこふんぐんだい13ごうふん)

桜土手古墳群第13号墳

桜土手古墳群第13号墳遺物出土状況

 秦野盆地を流れる水無川の南岸に35基で構成されていた桜土手古墳群のほぼ中央、標高170メートルほどの平坦地に位置します。

 日産車体工場建設に先立ち、昭和49年から昭和52年にかけて発掘調査が行われ、周溝を含めた直径が19メートル前後の二段築成の墳丘に、長さ約5メートルの横穴式石室を持つ古墳であることが確認されました。

出土遺物は土師器、須恵器、鉄鏃、直刀、装身具などで、特に坏や長頚瓶が目立ちます。本古墳から4メートルほど離れたところには、第10号墳や第14号墳でみられた埋葬施設と考えられる小石室が検出されており、そこに葬られた人々と、古墳に葬られた人物との関連がどうであったかなど、興味ある問題を提示しています。

おわりに

 古墳時代後期にあたる6世紀後半の相模国域には、相模川の流域を中心とする「相武国造(さがむのくにのみやつこ)」、酒匂川の流域を中心とする「師長国造(しながのくにのみやつこ)」、鎌倉から三浦半島にかけての「鎌倉別(かまくらのわけ)」という3つの勢力圏が確立していました。秦野地域が含まれる師長国造の勢力圏には、足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)郡に相当する足柄平野に勢力を持つ在地首長、余綾(よろき)郡に相当する大磯丘陵に勢力を持つ在地首長の二つの勢力が成立し同盟関係を結んでいたと考えていました。しかし、二子塚古墳という両陣営の勢力範囲から離れたところで銀装圭頭大刀という威信財が出土したことは、二子塚古墳周辺に両者に匹敵する勢力が存在していたことをうかがわせます。その勢力が6世紀の末葉に秦野盆地の開拓に乗り出し、入植してきたものと考えます。

 6世紀末葉に秦野盆地に入植してきた人々は、盆地の北東にあたる草山遺跡を中心とする地域と、南東にあたる西大竹・尾尻遺跡群を中心とする地域に拠点を構えます。入植者あるいはその子孫は、7世紀以降、両地域に規模の大きな集落を展開すると共に、盆地の西方に目をむけ、水無川の両岸に桜土手古墳群、桃木原古墳群、平沢鈴張遺跡第1号墳という大規模な古墳群を形成します。同時に金目川の上流域にも金目原古墳群等の規模の小さな古墳群を造るようになります。また、集落近くの急斜面地の落合背戸横穴墓群や尾尻沢山横穴墓群等の横穴墓群を営むようになります。なお、古墳に埋葬される人と横穴墓に埋葬される人がどのように区別されたのかは、わかりません。

 一方、秦野盆地への入植に参画しなかった人々は二子塚古墳周辺に残り、下大槻欠上遺跡第1号墳、広畑古墳群や岩井戸・欠ノ上横穴墓群を造ります。8世紀を迎え律令制度が浸透すると同時に、秦野地域は相模国余綾郡を構成する地域と位置づけられ、以来、今に至るまで人々の営みが絶え間なく続けられてきています。

古墳時代後期の甕

国造の勢力圏

師長国造と相武国造の勢力圏

 相武国造(さがむのくにのみやつこ)の勢力圏は律令制下の大住郡、愛甲郡、高座郡という相模川流域を中心とする地域に、師長国造(しながのくにのみやつこ)のそれは足上郡、足下郡、余綾郡(よろぎぐん)という酒匂川流域を中心とする地域に相当します。しかし、二子塚古墳のある下大槻地区がどちらの勢力圏に含まれるのか、境界域が明らかではないため図示することはとても困難なことでした。

 そのような中、6世紀後半に見られる土師器の甕の表面を整形痕の差異に着目し、甕の胴部表面にヘラケズリが残る地域は相武国造の勢力圏、ハケメが残る地域は師長国造の勢力圏であるとする考えが10年ほど前に提示されました。下大槻周辺地域は、その出土する6世紀後半の土師器の甕の大多数のものにハケメ痕が見られ、ヘラケズリ痕がきわめて少数であることから、師長国造の勢力圏にあると考えられています。

二子塚古墳被葬者=在地首長の可否

 希少な材料と高い技術力を必要とする銀装大刀の製作は当時の相模国域では困難であり、大和政権が大きく関わっていたと考えられます。二子塚古墳で出土した銀装圭頭大刀は大和政権から譲られたものなのでしょう。

この場合、二子塚古墳の被葬者は、師長国造圏における第三の勢力(在地首長)と位置づけることができます。6世紀後半に師長国造を代表する地位にいたからこそ、大和政権から銀装圭頭大刀を賜ることができたと考えられます。

 従来、師長国造の権力の中心地は足柄平野地域(酒匂川右岸)から大磯丘陵地域へ移動したと考えられていましたので、二子塚古墳周辺の勢力が在地首長と認められるならば、足柄平野地域→二子塚古墳周辺地域→大磯丘陵地域という権力の移動があったことになります。だからこそ、秦野盆地の開発が可能になったのかもしれません。

今回の展示にあたり次の方々からご協力をいただきました。

専修大学 国立歴史民俗博物館 安藤文一氏 永嶋正春氏 土生田純之氏

ありがとうございました。

桜土手古墳展示館

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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