WEB再現 平成20年度桜土手古墳展示館特別展「古の農-古代の農具と秦野のムラ-」
問い合わせ番号:10010-0000-2194 登録日:2020年11月9日
平成20年10月25日から11月30日まで開催した、平成20年度桜土手古墳展示館特別展「古の農-古代の農具と秦野のムラ-をホームページ上に再現しました。
古の農 古代の農具と秦野のムラ の開催にあたって
平沢遺跡で遠賀川系壷形土器が発見されて41年が過ぎました。この発見により、弥生時代前期に神奈川県内へ弥生文化が伝ヲらたことが明らかになりました。
弥生文化は金属器の利用と水稲耕作が特徴です。中国大陸・朝鮮半島から水田灌漑技術とそれに合わせた農具が九州、近畿地方、東海地方に伝えられました。この壷形土器は福岡県遠賀川周辺で作られた土器を真似て伊勢湾周辺で作られ、弥生文化の新しい農耕技術と共に関東地方にやってきたと考えられます。
近年、神奈川県内で木製農具など、弥生時代から古代の農耕にかかわる遺物や遺跡が多数発見されました。これにより当時の人々の生活が明らかになりつつあります。今回の特別展では『古の農-古代の農具と秦野のムラ-』と題し、神奈川県内から出土した古代の農具を紹介し、合わせて秦野市内における古代集落の姿にスポットをあてるものです。
最後に、本特別展の開催に当たりご指導・ご助言・ご協力をいただいた皆様に心からお礼申し上げます。
平成20年10月25日
秦野市立桜土手古墳展示館
縄文時代の農
縄文時代は約1万2千年前に始まりました。それまでの石器を中心とした狩猟・漁撈・採集生活に加え、土器を使った生活が加わります。そして約9千年にわたる縄文文化の中で、徐々に植物栽培が行われるようになりました。
日本列島内の植物栽培の歴史は大きく3つの段階に区分できます。第1段階として、エゴマやシソなど自生植物の栽培や利用が縄文時代早期末から前期に始まります。第2段階として、栽培種、野生種を含むマメ科植物の利用が盛んになり、縄文時代前期末から中期にアズキなどが栽培された可能性があります。植物栽培は集落周辺で行なわれ、簡単な菜園的なものだったようです。第3段階は弥生文化の導入により、イネやアワ、オオムギなどの穀類の栽培開始と共に本格的な農耕へ移った縄文時代晩期後半から弥生時代前期の頃です。水田の開発は弥生時代中期以降各地に定着拡大し、同時に畠作による穀物栽培も普及したと推測されます。
縄文時代の畠
縄文時代の主食はドングリなどの堅果類をはじめとする種実や地下茎だったと考えられます。このような植物採集を中心とした暮らしの中で、農耕は生活のごく一部でしかありませんでした。そのため農耕の専用の道具としてよりも、竪穴住居や貯蔵穴をつくるための土を掘る鍬や鋤、穴掘り棒が農具としても用いられていたと考えられます。
また、石器の両刃打製石斧や環状石斧は土掘り具として使用されていた可能性があります。
弥生時代の農
弥生時代とは日本列島内に水稲耕作がはじまり、本格的な農耕が定着した時代です。弥生時代は早期、前期、中期、後期の四時期に区分でき、2003年に人間文化研究機構国立歴史民俗博物館が通説よりの500年早く紀元前10世紀から9世紀に始まった可能性が高いと発表しました。これにより、水田稲作は紀元前10世紀後半に九州北部で本格的に始まると、四国、近畿、東海、東北、関東へと約800年かけてゆっくりと広がっていくことが明らかになりました。縄文時代晩期、朝鮮半島を経由し北部九州に水田稲作の灌漑施設と機能分化した木製農具が伝来し、それが北陸から伊勢湾にいたるエリアに到達したのが弥生時代前期中頃(紀元前6世紀から5世紀)と考えられています。
池子遺跡群
池子遺跡群は逗子市池子地区にあります。京浜急行神武寺駅の北方に位置し、遺跡の範囲は北側の丘陵から谷戸部で、南側は池子川が境になります。
池子地区は戦前旧日本帝國海軍の弾薬庫として接収され、戦後は米軍提供用地として継続利用されたため遺跡の存在はほとんど不明でした。この用地内に米軍家族住宅の建設事業が計画され、11.9万平方メートルの発掘調査により、おびただしい数の遺構や遺物が発見されました。
遺跡は旧石器時代から近代まで続きます。弥生時代中頃、低地の河道とその周辺で人々は生活を営み、古代には谷へ生活圏が広がり、畑の畝も見つかりました。注目されるのは、河道などから通常腐りやすい骨角製品や木製品が量・種類とも豊富に出土したことです。木製品は作りかけも多く、工房が近くにあったようです。これら弥生時代の木製品などの遺物は全国的に注目され、一部が2002年2月に神奈川県の重要文化財に指定されました。
池子遺跡群
遺跡遠景
畝状遺構
平安時代の畝状遺構
写真提供:逗子市教育委員会
さまざまな農具
鍬は鋤と共に最も用いられる耕起具であり、土木具でした。「打つ」「引く」が基本動作で、畦作りや畝たて、土寄せ作業、作物まわりの土起こし、除草作業など作業により色々な鍬が使われました。「えぶり」など水田の地均し専用や、柄が短く土を起こす「打ち鍬」、柄が長く土の表面の引き寄せや除草や溝さらえなどを行う「引き鍬」などが代表的です。
鋤は「押す」「踏む」「すくう」が基本動作です。原始的な鋤として縄文時代から掘り棒があります。弥生時代に伝統的道具として残ったのか、朝鮮半島から水田稲作と共に伝わった農具の中に含まれていたのかは不明です。
弥生時代から古墳時代の鋤には身と柄を別々の材で作り結合する組合せ鋤と、身と柄を一木で作る一木鋤があります。身は刃先がフォーク状で藁などをすくい易い又鋤と通常の刃先の平鋤があり、組合せ鋤・一木鋤どちらにも装着します。また、現在のシャベルのように柄と身の接合部分に角度をつけた屈折鋤が弥生時代の中頃から主流となります。
農具の出土
農具などの多くの木製品は河道や水場遺構など水が溜まるような遺構から出土します。通常、木や鉄などの有機物は土の中で腐って無くなってしまいますが、水に浸かりパックされることで保護され、腐りにくくなるからです。今回展示している木製品はすべて河道や溝状遺構、水場遺構といった場所から出土したものです。
西日本を中心として多くの遺跡の遺物から、鍬や鋤などの農具の弥生時代から古墳時代中期の変遷をたどることが可能です。しかし、古墳時代後期(6世紀)以降については農具の出土量が減少し、それ以前のような研究が困難です。これは多くの遺物を出土した関西地方が「都」として開発されたり、使えなくなった農具の鉄刃は鉄素材として再利用され、柄などの木質部はかまどの炊き付けなど燃料として使い尽くしており、消滅してしまうので出土する農具の数が減少すると考えられています。
小出川河川改修事業
関連遺跡群
弥生時代河道
鍬出土状況
えぶり出土状況
写真提供
財団法人かながわ考古学財団
古代の農
高田南原遺跡 遠景
弥生時代から古代木製品出土状況
写真提供
神奈川県教育委員会
古墳時代以降社会が稲作を基盤としたものに整えられている中、いわゆる雑穀と呼ばれるものも盛んに作られていたようです。穀物としてはアワ・ヒエ・オオムギ・ダイズ・アズキなどが知られています。穀物以外ではウリ・イモ・ソサイ・カブ・タカナ・モモなど様々なものが作られていたようです。
古代の水田稲作にかかわる農具として田下駄があります。「田下駄」には2種類の機能があり、1湿田での田植えや稲刈り、湿地で葦を刈る時などに、足が沈むのを防ぐため、また足裏保護のために着用する下駄。2土を均したり、肥料を踏み込み、土と混ぜ均す代踏みに用いる下駄に区別されます。bは大足と呼ばれる梯子型の枠や丸い枠に足をのせる板をはめ込み、水田に体が沈みにくい作りになっています。これらの田下駄は近世に至るまでほぼ同じ形のものが使われていました。
大根・鶴巻地区のムラ
弥生時代から平安時代にかけての秦野市内でも、木製農具は使われていたはずです。しかし、秦野市内での今までの発掘調査では発見されたことはありません。前に述べたように、乾燥した台地の遺跡では木製品の殆どが土に還ってしまうからです。
秦野には近世の土地台帳である「検地帳」が一部の地域に残っています。慶長年間(17世紀)の鶴巻地区の検地帳を見ると田の利用率(田の面積÷田畑の合計面積)は49パーセントで、秦野盆地内にある同時期の東田原12パーセント、柳川22パーセントと比べると非常に高いことがわかります。多くの水田がみられる大根・鶴巻地区を対象に、木製農具が使われていた弥生時代から平安時代にかけてのムラの姿を再現します。
弥生時代のムラ
弥生時代には稲作が生活の基盤となり、米作りに有利な湿地で水田をつくり、その周辺にムラができます。秦野盆地に弥生時代のムラが見つからない理由は、湿地が少ないことにあります。
大根・鶴巻地区には現在でも水田が広がっており、秦野を代表する弥生時代のムラがいくつも発見されています。そのうちの一つ「根丸島遺跡」は、鶴巻温泉駅の東方の標高20メートルから30メートルの台地上で見つかりました。周囲は湿地に囲まれており、弥生時代を中心に縄文時代から室町時代にかけてのムラが営まれていました。弥生時代には台地上に家々が作られ、湿地には水田が作られていたと考えられます。
砂田台遺跡
砂田台遺跡は、東海大学前駅の南方400メートル、標高50メートルの台地の上にある弥生時代のムラです。昭和61年(1986年)から行われた発掘調査では50軒の竪穴建物、溝、方形周溝墓が見つかりました。特に、出土品の磨製石斧と鉄剣を再加工した鉄器は、東日本での本格的な農耕文化定着期の鉄器の普及を明らかにする貴重な資料として、平成13年(2001年)に神奈川県教育委員会により重要文化財の指定を受けました。
竪穴建物のうち火災で焼失したと考えられる3軒から出土した遺物の分析を通じて、周囲には常緑樹、落葉樹が混生する林があったことがわかっています。また、同様にタデ・スミレ・シソ・スゲといった植物が周囲に生えていたことがわかっています。ムラの人々は台地の上に家を建て、低地に水田を造り稲作を行っていたと考えられます。
砂田台遺跡には、ムラ全体で協力して石器を製作したと考えられるような痕跡があることから、石材の入手など周辺のムラと交流があったと考えられます。
古代のムラ
古墳時代の後半(7世紀)以降、発掘調査で発見されるムラの数が増加します。調査面積が少ないため詳細な変遷過程はわかりませんが、当時のムラは台地上の平坦面に営まれています。稲作が生活の基盤であったことから、低地には水田が作られていたと考えられます。
奈良時代(8世紀)になると秦野盆地内のムラは相模国余綾郡幡多郷に編成されたといわれていますが、大根・鶴巻地区については定説がありません。今回は竪穴建物から出土する7世紀に使われた土器に注目して、大根・鶴巻地区の周辺にあるムラを相模国余綾郡金目郷と推定しましたが、今後の調査・整理の進展により新見解が示される可能性があります。
小南遺跡
小南遺跡は東海大学前駅の西方700メートル、標高50メートルの台地の上にある縄文時代から中世にかけての遺跡です。平成5年(1993年)から行われた発掘調査により、古墳時代から平安時代にかけて営まれた竪穴建物74軒が見つかっています。
竪穴建物は間隔をおいて営まれているところから、空閑地を雑穀を作る畑として、また、台地周囲の低地は稲作を行う水田として利用していたと考えられます。発掘調査では鉄製の鎌が出土していますが、鉄製農具と共に木製農具も多く使われていたと考えられます。なお、この遺跡からは109グラムの鉄製の分銅が見つかっています。下大槻峯遺跡では52.6グラムのものが見つかっていますが、共にその用途は明らかではありません。農耕に関わるものであるならば、種子の重量を測っていたのかも知れません。
建物を建てる平坦面の面積も狭いことから大規模なムラではなく、交易などで同じ金目郷の周辺のムラと頻繁に交流があったと考えます。
下大槻峯遺跡
下大槻峯遺跡は金目川の左岸、標高差60メートルの河岸段丘上にある古墳時代から平安時代にかけてのムラです。平成3年(1991年)から行われた発掘調査では111軒の竪穴建物、最大幅2.6メートルで最大深度約1.3メートルの溝、それと平行に走る幅2メートルから3メートルの道が見つかっています。
出土品の分析結果から周囲の丘や段丘の縁には常緑樹・落葉樹の林があったと考えられます。また、イネが出土していることから段丘の下に水田を作り稲作を、ムギやアワが出土していることから小南遺跡と同様に空閑地で畑作をしていたと考えられます。竪穴建物のカマドに残った灰からは魚の骨が出土しているので、海辺のムラとの交流もあったようです。秦野盆地にある草山遺跡でも魚の骨が見つかっているので、金目川を用いた流通ルートがあったのかもしれません。
ムラの中央を東西に走る道はしっかりと踏み固められており、秦野盆地の尾尻八幡神社前遺跡(幡多郷)で見つかった道とひとつにつながるとすると、その延長線上の平塚市内にあった国府へ通じる主要な道だったのかもしれません。
おわりに
鍬は鋤と共に最も用いられる耕起具であり、土木具でした。「打つ」「引く」が基本動作で、畦作りや畝たて、土寄せ作業、作物まわりの土起こし、除草作業など作業により色々な鍬が使われていました。
今からおよそ二千年前に関東地方で本格的な水稲耕作が始まりました。お米を食べるために、人々の暮らしは農を中心としたものになり、同時にムラ社会が変革していきます。
いにしえの人々の米つくりへのこだわりが農具や、ムラのあり方の一部でも皆様に伝えられることができたならば幸いです。
本特別展において、次の方々からご高配をいただきました。記して御礼申し上げます。
天野賢一氏、上田薫氏、大上周三氏、小川岳人氏、菊池信吾氏、杉山博久氏、田尾誠敏氏、立花実氏、谷口肇氏、中山誠二氏、若林勝司氏、神奈川県教育委員会、逗子市教育委員会、山梨県立考古博物館、山梨県立博物館(順不同)
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