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WEB再現 平成18年度桜土手古墳展示館企画展「秦野の原像5草山遺跡(ムラ)の風景」

問い合わせ番号:10010-0000-2192 登録日:2020年11月9日

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平成18年10月から12月10日まで開催した、平成18年度桜土手古墳展示館企画展「草山遺跡(ムラ)の風景」をホームページ上に再現しました。 

草山遺跡出土土器

秦野の原像5 -草山遺跡(ムラ)の風景 開催にあたって

 「秦野の原像」は市域内の1つの遺跡を取り上げてご紹介する企画展で、五回目をむかえた今回は、古墳時代終わりから平安時代にかけて営まれた市内最大の集落である草山遺跡に光を当てました。

草山遺跡は、昭和50年(1975年)以来、十回を超える発掘調査が行われています。特に昭和59年(1984年)から2ヵ年に渡って行われた調査では、出土した豊富な遺物から、その発掘調査報告書は旧相模国内における土器研究の基本資料となっています。

 今回の企画展では草山遺跡の復元に取り組みました。今まで目にふれることのなかった出土遺物を通じて、土器だけでは知ることができない草山遺跡の風景を描きました。まだまだ、解明しなければならない点は多々ありますが、秦野市域の古代史を考える一助になれば幸いに思います。

 最後に、本企画展の開催に当たりご指導・ご助言・ご協力をいただいた皆様に心からお礼申し上げます。

平成18年10月28日

秦野市立桜土手古墳展示館

 草山ムラの位置

草山遺跡の位置

 秦野市の中心部は、北を丹沢山地、東西を丹沢山地から延びる尾根、南を渋沢丘陵に囲まれた秦野盆地にあります。盆地の中には扇状地が造られ、周辺に降った雨が地下水となり、盆地東南の地域で湧き出します。草山遺跡は盆地の東にあたり、南に向かって流れる金目川とその支流に挟まれた幅200メートル、長さ1キロ、標高約100メートルの台地に立地します。ここには、古墳時代から奈良・平安時代に営まれた大きな集落が今でも眠っています。最近の調査では、西方の金目川を挟んだ対岸と、東方の金目川支流を挟んだ対岸の両地域に同じ時期の集落があることが明らかになりました。3つの地域には盆地内の中心集落として人々の生活が営まれていたと考えています。

 相模国の郡郷図

草山ムラとは・・・

 奈良・平安時代の行政組織は、おおよそ全国を五畿内(日本の中心だった山城・大和・河内・和泉・摂津の五カ国)と、七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分け、その道筋に国・郡・郷と呼ばれる行政単位を置いていました。平安時代の書物に記されている「相模国余綾郡幡多郷」は秦野地域に相当すると考えられています。

 発掘調査などによって「幡多郷」の推定範囲には、4つの地域に奈良・平安時代の集落が所在していると考えています。奈良時代のある時期に、「郷」にはいくつかの「里」という行政単位が置かれており、4つの地区が、この「里」に相当するかもしれないと思います。

草山ムラ(草山遺跡を中心とする地区)

 金目川の両岸、秦野曽屋高校周辺の地域にあたり、出土品の内容から幡多郷の中心集落であった可能性が高いムラです。

西大竹尾尻ムラ(西大竹・尾尻地区)

 水無川の南方、秦野赤十字病院周辺の地域にあたり、草山ムラに匹敵する数の建物群が発見されています。

今泉ムラ(今泉を中心とした地区)

 水無川の南方、西大竹尾尻ムラの西側にあたり、規模が小さいことから、西大竹尾尻ムラの一群に含まれるかもしれません。

大槻ムラ(上・下大槻を中心とした地区)

 東名高速道路と金目川の交差する地点を中心に川の両岸の段丘上に広がります。盆地の外にあるため、隣の金目郷に含まれる可能性もあります。

草山遺跡調査地点

発掘調査

 草山遺跡では、昭和50年(1975)に最初の調査(7502地点)が行われました。県道秦野二宮線の建設工事に先立って行われたもので、約1300平方メートルの面積から竪穴建物20軒、掘立柱建物7棟が出土しました。以来、12回にわたる発掘調査が行われています。

 中でも昭和59年(1984)に行われた調査(8401地点)は、県立秦野曽屋高校建設に先立って行われたもので、遺跡内でも最も広い調査面積を有するものでした。約23,000平方メートルの調査区からは、それぞれ100を超える竪穴建物や掘立柱建物が見つかりました。営まれた建物群は幅数メートルの空白帯によって四角形に区画にされており、計画的なムラ造りがされていたと考えることができます。特に中央部の第2居住区は100メートル四方の区画の中にいくつかの小区画が分けられており、出土品も他の居住区と比べると貴重なものも多いことから、草山ムラの有力者の住まいであったと考えられています。

草山ムラの生活

 今回の企画展では今まで目にふれることのなかった出土遺物を通じて、土器だけでは知ることができない草山遺跡の風景や日常の再現を試みました。

1 温石

 温石は「懐炉(かいろ)」と同じように身体を温めるものですが、使う目的が現代とは異なっていました。現代の懐炉は寒い冬に暖を取るための暖房器具ですが、当時は患部を温める医療器具として用いられていました。

 草山ムラから出土した温石は、8401地点第2居住区145号竪穴建物のカマドの前から出土しています。この建物は9世紀の終わりから10世紀の初めの頃に営まれていたものですが、床面から10センチ程度高い位置で見つかっていますので、この建物の住人が使用していたとは言い切れません。

 温石はカマドあるいは炉の中で暖めたことと思います。火の中で十分熱した温石は、そのままだと火傷するため、おそらく布のようなもので包んで身体の悪いところにあてたと思います。

温石 ラビ温石で癒される

2 海老錠

 形が似ていることから「海老錠」と呼ばれている錠前は、草山ムラからは2点が出土しています。やや小ぶりであるため、倉庫などの建物の扉というよりは櫃・厨子などの箱につけられていたと考えられています。草山ムラには錠前をかけるような箱があり、その中には「お宝」があったのでしょう。

 「お宝」として考えられる出土品として、「帯金具」「銅銭」「ガラス玉」をあげることができます。これらの品々の多くは竪穴建物の床下から出土しており、建物を造るにあたっての儀式・祭祀に使用した可能性があります。しかし、出土量が極めて少ないことから、有力者などごく限られた人々しか所有することができなかったと思います。このようなものが、儀式・祭祀に使われるまでは、海老錠のかかった箱の中に大切にしまわれていたのではないかと思います。

桜子海老錠を使う桜子帯を締める

海老錠

3 紡錘車

 紡錘車は糸をつむぐ道具で集落の発掘調査ではしばしば見ることができます。鉄で作られたものと、紡輪部が石で作られたものがあります。

 今回展示した鉄製の紡錘車は、9世紀の初めの頃に営まれた8401地点第2居住区154号竪穴建物から出土したものです。この建物には炉が設けられており、紡錘車は炉のあたりから、しかも、絹糸が巻き取られた状態で出土しました。きっと、炉で湯を沸かし、繭をほぐして、紡錘車を使って糸をつむいでいたのでしょう。757年から施行された「養老令」や、近年見つかった849年の年号がある「加賀郡示札」にも桑を植えたり養蚕を行うよう記されています。草山ムラの住人も桑を植え養蚕にいそしんでいたのでしょう。そして、草山ムラではカイコの餌となる桑畑がムラの周囲に広がっていたとも想像することができます。

桜子ガラス玉を装う 絹糸をつむぐ

遺跡出土紡錘車  紡錘車名称図  

 4 ムラの風景

 草山ムラの発掘調査では動物や植物の姿を垣間見ることができました。あるものは、建物を埋めた土の中から炭のようになって、また、あるものは建物に作られたカマドに残った灰の中から見つかっています。海が近くになく、また、海の魚をとるような道具も見つかっていないことから、草山ムラで多く見つかったイワシなどの海の魚は、海辺のムラから交易により手に入れたのでしょう。

 野うさぎ・鹿・鳥などの骨も見つかっています。魚と比べるとその数は少ないものの、山々が草山ムラの近くにあり、鉄製品の鏃が出土していることから考えると、ムラの周辺で狩りをして得たものでしょう。

 米・粟は、頻繁に食べていたのではないかと思えるほど非常に多く見つかっています。ムラの中からは鎌などの農作業に用いる鉄製品が出土していることから考えると、豆や麦と共にムラの周囲で栽培していたのでしょう。胡桃、栗、ドングリ、桜、梅、桃などの木の実や種も出土しています。栽培していたものもあるでしょうが、ほとんどのものはムラの周辺に自生していたと考えています。また、食用にならないスギやコナラの破片も見つかっています。西大竹尾尻ムラでは火災で焼失した建物内に残っていたことから、草山ムラでも建物の部材として使われていたのかもしれません。

 周囲の山々には野うさぎや鹿のいるスギやコナラの林があり、ムラの中には水田や畠が作られ、近くの村々へ道が続くという左のような風景が、草山ムラにはきっと広がっていたのでしょう。

草山ムラの推定図

草山ムラのおわり

 6世紀の末から営まれた草山ムラは、10世紀に終わりを告げました。ムラ人は、なぜ350年にわたって住みなれた草山ムラを離れたのでしょうか。また、どこに行ってしまったのでしょうか。その答えは、まだ、見つかっていません。原因に気候の変化を理由にあげる人もいますが、社会の変化がムラの終焉に大きな影響を及ぼしたのではないかと考えています。

注:平成18年度桜土手古墳展示館企画展の開催にあたり、かながわ考古学財団大上周三氏に多大なる指導・監修を受けました。

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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