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秦野水道 給水開始125周年(平成27年3月15日)~

問い合わせ番号:10010-0000-0649 更新日:2016年12月6日

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 先人たちが築き残してくれた大きな財産と自然の恵みを守り慈しみ、安全でおいしい水の供給を使命として、環境に配慮した水づくりを進めています。

 平成27年3月15日は、秦野で水道の供給が始まってから満125歳の誕生日です。

 明治23年3月に、曽屋村の人々がお金を出し合い、愛知県常滑製の陶管を使った簡易水道を布設し、曽屋配水場を造り給水を開始しました。

 この水道は近代水道として、横浜、函館に次ぐ全国で3番目、簡易陶管水道としては全国で初めてのものでした。

 秦野が近代水道の草分けだったということは、私たちの誇りです。これからも、「おいしい秦野の水をいつまでも」お届けするよう努めていきます。

曽屋公園(旧曽屋配水場跡)について

 みなさんは、曽屋公園を訪れたことがありますか?

 曽屋公園は、秦野水道の発祥の地である場所です。給水125周年を記念して、ぜひお越しください!

 住所:秦野市水神町9-23

門
<曽屋公園の門>

注:こちらから公園内に入ります。

記念碑
<曽屋水道記念碑>

注:門から入って右手にあります。

花壇
<花壇>

注:125周年を記念して整備しました(計4箇所)。

モニュメント
<モニュメント>

注:100周年を記念して作りました。

パネル
〈曽屋区水道創設説明パネル〉

注:曽屋区水道が創設された経緯が書いてあります。

貯水槽
<配水池(旧貯水池跡)>

注:四角い形をしています。

秦野水道の歴史

曽屋区水道 創設前

 秦野市の水道は、明治23年3月に給水を開始した「曽屋区水道」に始まります。それ以前は、曽屋神社境内に湧出する井大明神の清泉を用水路に流し、生活用水として使用していました。しかし、人口の増加により、水の配分争いが、たびたび起こるようになりました。その状況を見た、大道に住む佐藤安五郎が、私財750両(約3,700万円)を投じて、井大明神の泉水を増水するための工事を行いました。工事は、湧出口から北方向に高さ約180cm、幅約150cm、距離約180mの隧道(トンネル)を掘りました。その他にも安全管理のために、用水路の両側に高さ75cm、距離約900mの石垣を造り、工事期間は、約1年間を要しました。

 この用水不足を解消するために佐藤安五郎以外にも片町に住む有志が、乳牛水神社の水源の下流にあった水田の地主と交渉を行い、有志から募った寄付金を贈って、水田を畑地にしてもらい水利権を獲得したりなど、色々な人々の努力のおかげで、水量が増え、水配分が解決しました。この用水路は、曽屋区水道が完成される約40年間の間使用されました。

曽屋神社境内のイ号水源
<曽屋神社境内のイ号水源>

用水路
<曽屋用水の跡>

 用水路の水は、生活用水として、飲料水をはじめ、食物や食器洗いなどに使用していました。しかし、地表に露出している用水路の水は下流に行くに従い、よごれ、また、雨が降った時は飲むことができませんでした。

 このような状況の中、明治12年8月、この用水路を介してコレラが流行し、村の人口の3パーセントに当たる81人が発病し、25人もの犠牲者を出しました。これを契機に識者の間で飲料水改良の対策が検討されました。

曽屋区水道 創設時

 コレラの発生から8年、梶山良助らの識者を中心に飲料水改善の活動が実り、曽屋区水道布設事業の計画が始まりました。計画に関して、町の資金状況や梶山良助提案の簡易陶管を水道管として布設する案などを元に、工事に必要な行政手続きを進めていきました。そして、明治20年3月に水道工事委員37名の連署をもって神奈川県へ工事設計を出願し、翌年3月には水道布設等の認可を申請、同年4月に事業認可を得ました。

 水道布設工事に関しては、梶山良助や川口直次郎を工事担当代表として定め、県から2名の監督者をもって、曽屋配水場建設と水道管布設工事を始めました。明治23年(1890年)3月15日に工事を竣工し、横浜・函館に次いで全国3番目、簡易陶管水道・自営水道(県から技術上の援助のほかは関係区民の負担によるもの)としては日本初の水道として給水を開始しました。

水道工事の様子
<水道工事の様子>

工事の約束事
<工事の約束事>

曽屋配水場
<当時の曽屋配水場>

曽屋配水場2

梶山良助翁と曽屋区水道

梶山良助(かじやま りょうすけ)について(1836年~1920年)

 小田原出身。小田原の商人である桔梗屋の吉田家の次男として生まれ、姉が秦野に嫁いでいた縁で、秦野の梶山家に婿入りをしました。秦野へ来る前までは、質商の奉公の傍ら、絵や陶器などについて幅広く学び、それらを活かして陶芸家の三浦乾也を秦野に招き、秦野焼(窯)をおこしたり、曽屋区水道建設では、中心的な役割を担ったりなど、多彩な才能を発揮しました。

曽屋区水道における梶山良助の功績

 当時のコレラの現状を見て、綺麗な水を得ることを目的に曽屋区水道建設の必要性について、関係住民などに説得をしました。水道管に簡易陶管を使うことを提唱したと言われ、当時の町の財政状況では、鉄管を用いることが難しかったことや自身の陶器についての経験や知識などから全国初の陶管を使った水道管の布設に繋がりました。水道布設工事では、県に技術的な支援をもらいながら、川口直次郎と一緒に工事担当代表や水道工業委員を務め、工事に関わる役職に無報酬で奉仕したばかりではなく、自ら率先をして、家財のほとんどを提供し、曽屋区水道建設に尽力しました。

 これらの努力が認められ、明治44年3月、内務大臣から水道事業布設の功労者として表彰されました。この時に贈られた150円を曽屋区水道の配水池の屋根をつくるために寄付をしました。そのような梶山良助の献身的な努力や町の人々の協力のもと、曽屋区水道が完成しました。

梶山良助
<梶山 良助>

陶管
<簡易陶管>

注:昭和11年秦野町水道誌から引用

参考文献

  • 漆原俊(1997)「秦野盆地の人脈・水脈余話-旬市場尚古堂関山翁を繞り-」,『秦野市史研究』第17号,pp.12-22,秦野市(市史編さん担当).
  • 梅沢英三(1970)「秦野に於ける三浦乾也と梶山良助に就いて」,『秦野の文化財』(第6集),pp.7-13,神奈川県秦野市教育委員会.
  • 中野敬次郎(1963)「秦野(曾屋)陶管水道の生れるまで-その恩人梶山良助-」,『水道協会雑誌』340号(1月号),pp.69-73,日本水道協会.
  • 中野敬次郎(1982)『復刻版小田原近代百年史』株式会社八小堂書店.
  • 『秦野水道百年史』編さん関係者(秦野市水道局)(1990)『秦野水道百年史』秦野市水道局.

現在の水道

 曽屋区水道から始まった秦野市水道は昭和20年代から集落単位で、石綿セメント管を使用した小規模水道が数多く誕生しました。40年代に入ると、人口増加や工場進出などにより水需要が急激に増加し、各地区で水圧不足や断水が生じました。このため、45年度から4か年をかけて市街化区域を中心に、13水道を統合整備しました。

 さらに将来の水需要を考え、51年7月から神奈川県内広域水道企業団が用水供給している神奈川県企業庁から分水を受け、県水を導入しました(第1次拡張事業)。また、56年度から5か年をかけ第2次拡張事業を実施しました。引き続き、平成12年度からの水需要に対応するために、平成4年度から第3次拡張事業を実施し、東水道、北簡易水道、菩提遠山組合営簡易水道などの未給水区域の一部を加えた区域を統合整備して、秦野市水道の一本化を図りました。こうして、秦野市水道は、時代と共に、拡張・統合を繰り返して発展をとげています。

県水受水施設
<県水受水施設(二タ子送水ポンプ場)>

現在のロ号水源と(左)とハ号水源(右)
<現在のロ号水源と(左)とハ号水源(右)>

工事写真(耐震管)
<耐震管のダクタイル鋳鉄管で施工>

このページに関する問い合わせ先

所属課室:上下水道局 経営総務課 経営企画担当
電話番号:0463-81-4113

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