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更新日:2014年4月16日

奈良・平安時代

「秦野」の由来波多野氏の発祥と発展黄海の戦い(前9年の役)波多野氏と保元の乱丹沢山と仏教文化

 「秦野(はだの)」の由来

秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もそのひとつですが、現在のところ文献や考古資料から古代に秦氏がこの地を開拓したという証拠はみつかっていません。平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に秦野の古名は「幡多」だったとの記載がはじめて文献にあらわれます。鎌倉時代に入ると「吾妻鏡」や「保元物語」などの軍記物語に、平安末期にこの地の地名を名乗った「波多野氏」が登場します。しかし、「はたの」と「はだの」のどちらで発音されていたのかはわかりません。過去において「はだの」と呼ばれていたことが確実にわかる史料は、江戸時代に入ってからの振り仮名の記載がある「東鏡」や「香雲寺文書」、「新編相模国風土記稿」などです。

「秦野(はだの)」の由来についての記載がある本

  • 『秦野市史通史1総説・原始・古代・中世』
  • 『秦野市史研究第1号』
  • 『秦野市史研究第2号』
  • 『秦野市史研究第25号』
  • 『秦野市史項目事典』

 

 波多野氏の発祥と発展

承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、その子孫が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。
波多野氏の祖と伝えられる経範は、前九年の役(1051~62)には、源頼義・義家父子に従い、東北平定におもむき活躍をしています。

波多野氏略系図

 黄海(きのみ)の戦い(前9年の役)

「陸奥話記」によると前九年の役に参加した佐伯経範とその家来たちが、黄海の戦いで、源頼義らと共に敵にかこまれてしまいました。経範らは自力で突破しましたが、敵中で苦戦していた頼義を救うため再び敵中にもどり、頼義を救ったものの、自らは戦死したと書かれています。

 波多野氏と保元の乱

保元元年(1156)、波多野義通は源義朝と共に後白河天皇方につき、崇徳上皇・源為義らと戦い勝利をおさめ、為義の幼い子4人命を奪いました。この痛ましい物語は「保元物語」に克明に記されています。

 丹沢山と仏教文化

平安時代には、大山を中心として仏教文化が花開きました。伊勢原の日向薬師や良弁開基とされる大山寺、厚木の飯山観音、秦野の蓑毛の大日堂などがそれにあたります。蓑毛宝蓮寺の聖観音菩薩立像、大日堂の五智如来座像、東光寺の聖観音菩薩立像、太岳院の十一面観音菩薩立像なども、平安時代の秦野における仏教文化の栄えた様子を伝えています。

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お問い合わせ

所属課室:教育部生涯学習課文化財担当

〒259-1304 秦野市堀山下380-3 桜土手古墳展示館内

電話番号:0463-87-9581

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